2004年8月23日夕刊
京都新聞『現代のことば』

五十九年
桑原仙齋



 「戦争終わったらしいで!」
 「へえーっ、勝ったんか」

 昭和二十年八月十五日。敗戦の日、十七歳だった私は予科練(海軍飛行予科練習生)として土佐の海軍の基地にいた。

 無邪気な話である。その日の土佐は、空を見上げても雲のかけらもなく晴れ上がっていた。そして、

 「負けたらしいで」
 「へえーっ、そうか」

悲愴感もなく、ただそれだけでおしまいだったのである。だが八月十五日になると、毎年空を見上げてしまう。

 あの頭の上が唐突に空白になってしまったような感じは五十九年たった今でも忘れられはしない。

 それに続く戦後期は、あらゆる権威が消えうせて、底の抜けたような自由さの毎日だった。父親世代の意見はすべて「封建的」の一語で片づけられていた。

 敗戦によって勢いよく躍り出てきた共産主義も私には何となく怪しげな運動に見えたし、アメリカ流の民主主義も大して信用できなかった。

 その民主主義を、戦後の日本のあるべき姿にと指導しようとした年代層は、日本を第二次世界大戦にひきずりこんだ明治生まれの人たちである。そして明治世代の人たちが起こした戦争の最大の被害者は大正生まれの戦力の中心になった世代である。

 だが皮肉なことに、焼野原と闇市の日本をものすごい馬力で建て直す中核的な役割を担ったのも大正世代の人たちである。

 とにかくイデオロギー抜きでしゃにむに働き続けて現在の日本があるわけだが、その原動力は一体何だったのだろうか。

 神格化されていた「天皇」のためにというスローガンも、天皇の「人間宣言」で消えうせ、屋根も壁も床さえとり払われ、無限の自由が降ってわいてきたような奇妙な時期だった。

 大正世代、それに昭和六、七年ぐらいまでに生まれた世代は、昭和初期の豊かで安定した時期に育ってきている。もちろん大不況や東北地方の飢饉ということもあったが、敗戦後の荒廃し、飢えと貧困に喘ぐ日本は、自分の育った時代はこんな国ではなかったと強く感じていたと思う。

 敗戦後の日本を繁栄に導いていった原動力はその辺にあったのではないかと私は思う。だが敗戦後の空虚感を満たす強い思想を作り上げることができたのだろうか。

 「テロリストを撲滅するためには、軍事力を使うことを神はお許しになるだろう」とイラクで無差別な大量殺戮を進めるアメリカ大統領の唱える民主主義・正義は世界各国が毛嫌いしているし、イスラムの世界もますますかたくなに応戦している。

 そんな世界で一体どんな思想が成り立ちうるのだろうか。私自身も敗戦後の空白感はいまだに埋められていない。

 このごろネイティブ・アメリカン(アメリカ・インディアン)の自然観を書いた本が良く出ている。私もそんな生活に惹かれはするが、実現できそうにもない社会に生きている。ただ自然に順応しようと花をいけ続ける日々である。

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