2003年8月1日夕刊
京都新聞『現代のことば』

いけばなと自然宗教
桑原仙溪

 

宗教は、創唱宗教と自然宗教に大別することができるそうである。  

創唱宗教とは、誰か教祖が現れ、その人が神の姿を定め、教理を作り、それがひろまってできた宗教であり、自然宗教とは、いつ誰が唱えはじめたともなく、周辺の人々の間に定着した神への信仰である。  

日本のいけばなに、宗教との関連を求めるなら、自然宗教がそれに当たる。直接いけばなに関連しているのは古代の樹木信仰だろうが、その時代の人々は大木だけを崇めていたのではなく、大きな山、岩、大河、風や雨という地上の自然、そして太陽、月、星という宇宙の営みのスケールにも崇敬の念を抱いていたのであろう。そこから垣間見える様々な神の姿に祈りを捧げている間に原日本的な自然宗教の形態が生まれたのだろうと思う。  

天空の神々が地上に降って来られるのは直立する大樹の頂きだった。  

いけばなが古代信仰に根ざした形を持ちはじめたのは室町時代の立て花(後の立花)からだった。畏敬する大樹の佇いをいけばな(立て花)として室内に持ちこんだのである。  

だが、ここでいけばなの道を歩む私は古代日本人と同じ自然観で花を考え、それをいけばなとして人に伝えているのだろうか。  

ヨーロッパでいけばなのセミナーを開くと夜は雑談の時間になる。日本人の自然観をもとにしてできたいけばな論になると、話はどうしても宗教が絡んでくる。相手は敬虔なキリスト教徒である。質問はまず「桑原さんは日本人だから仏教徒ですね」とくる。私は「勿論、そうです」とは答えられない。  

仏教について何か聞かれても、キリスト教徒のように、生まれてすぐに洗礼を受け、子供の頃から聖書を叩き込まれ、何かにつけてその一節を引用する彼等とは比較にならないほど仏教の教理を知らない。  

仏教は奈良時代に渡来した外来宗教である。それなら縄文、弥生時代を通じて培ってきた日本の土着の自然宗教について、どれほど知識や実際行動があるのだろうか。  

一体私は無宗教者なのだろうか。敬虔なキリスト教徒にとって、神を持たない人間はあまり信頼のおける人格には見えないようである。或いは原始的な物神教で暮らす種族と思われるかもしてない。どちらにしても彼等を相手に宗教の話に深入りしたくない。それでも私は私なりの宗教らしきものは持っている。  

神より向こうは立入禁止のような宗教より「難しいけど、立ち入れないことはないよ」と教えてくれる仏教の方が好きだし、孔子の論語には微かなユーモアが漂っているし、シニカルな老子の五千言、美しい寓言のちりばめられた荘子などを、書棚で何十年も優遇してきている。  

散歩に行くときは古い神社の古木が繁っているところがいい。神々しさを感じる。  

私達の宗教的環境にはクリスマスまで年中行事に組みこまれている。クリスマスが過ぎると、一家でお墓詣りをして掃除してくる。大晦日にはお参りをして元旦の支度をととのえる。  

私達の宗教生活は入り乱れていて芯がないという批判もあるだろうが、私は日本のおだやかな宗教上の環境が気に入っている。  

昔、日本では神の名において戦争がはじめられた。未だにそんな国もある。  

だが今の日本では、どの神の名を借りれば戦争ができるのか、判然としない。  

閑かに、そして私達日本人が古くから受けついできた草木への想いをいけ続けられれば、それが私の浄土であり天界への道なのである。

 

  京都新聞8月1日夕刊より転載


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