2004年12月2日夕刊
京都新聞『現代のことば』

西遊記から始まって
桑原仙溪



この間本屋で『教養主義の没落』という本を見つけた。教養というものが、今の世で不必要になったのかと不安になって読みはじめた。そこで知ったのは、戦前の旧制高等学校生たちの教養のための必読書とその影響や経過が克明に書かれていた。だが私の読書傾向はその路線から大きく逸れていた。

旧制高等学校生たちが教養として身につけるべきだとされたデカルトやカントの哲学やマルクスの著書。素養として読みこなそうとしたドストエフスキーなどのロシア文学は手にはとったがウンザリし、べートーベンの音楽に心を打たれることもなかった。

だが私はそれでよかったのである。ふり返ってみると随分たくさんの書物を読んできた。読書癖は小学校一年生の夏休みから始まる。最初の本らしい本は宇野浩二の『西遊記』(春陽堂少年文庫)である。『西遊記』は百回(章)なのだが、そのうち主になる三十回分くらいの原典が訳されて一冊になっていた。だが子供向きの意訳ではなく、 「……天地開闢以来この仙石は天地の精髄と日月の精華に潤って……」という調子で孫悟空の誕生から語リ始められている。ルビはふってあるものの漢語が原典どおリ使われていた。だいたい二百五十ぺージぐらいの本だったが、読み切るのに小学校一年生の夏休みをほとんど使ってしまった。そしてそんな難しそうな『西遊記』がわかったのかというと、 何となくわかってしまったのである。そしてかなの絵本で『西遊記』を見るより素直に、そして忠実に『西遊記』の気分が身についたのではなかったかと思う。おかげでその後イェイツの『アイルランド民話集』を読んだとき、アイルランドの妖精と中国の仙人との違いを感じ分けることもできるようになった。

小学校高学年から中学校に入る時期からは父の書棚からいろんな本を抜き出して読むようになる。その中で私に最も影響を与えたのは林語堂の『生活の発見』である。林語堂は一九三〇年代の中国の思想家で、私の家の食卓の会話にもよく登場した。林語堂は一尾の鯛を見て、科学的な分析をするより、その鯛が旬であるかどうか、どこで釣れ、 漁師が適切な処理をした上で自分の家に届いたのかどうか、脂ののり具合を見て、どんな料理にするべきか、そんなところから彼の哲学がはじまるというのが食単の結論だった。

『生活の発見』は未だに私の書棚の一等席に『西遊記』『水滸伝』『聊斎志異』『随園食卓』と並んでいる。そしてさまざまな分野の歴史書、イギリスやフランスの小説類がそれぞれの場所を埋めている。

その書棚を見ていると、ずいぷん本を読んだものだと思うが、それは「教養の没落」とは縁のない雑知識の集積だったようである。頭の中はガテクタ箱なのかもしれないのだが、そのガラクタのいくつかが化合しあって何かが見えることがある。それは本当に楽しいことであるし、今の私の心を作り上げているのである。

よく本は読むが、それぞれの本をまるごと理解して蓄積しようとは思っていない。でも読めば一冊の本の二、三ぺージ分はどこかに残る。だから百冊読めば一冊分ぐらいの知識の分量は自分のものになるのである。

テレビから得るいわゆる情報とはちがって、読みながら考え、読み返して自分なりの解釈を作れるのが知識であり、うまく行けば教養といえるものになるのかもしれない。

  京都新聞12月2日夕刊より転載


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