2004年2月6日夕刊
京都新聞『現代のことば』

水仙をいけながら
桑原仙溪



京都には、初冬になると越前岬(福井県)から水仙(和水仙)が送られてくる。 

私達はそれを水仙の初花として、その姿をよく見つめて丁寧にいけている。まだあまり背は高くない。花は葉よりも低く、岬の傾斜地を吹き上げてくる日本海の寒風から、葉が花を守っているような咲き方である。その時期、日本のいけばなではそんな姿を象っていける。 

節分を過ぎると花は元気よく葉より高く伸び上がりはじめる。いけばなもそれに倣って形を変え、より深く季を心に刻みつけようとする。反対にいけられた水仙の形の変わりようから季の繊細な推移を教えられることにもなるのである。それが日本のいけばなである。 

歳月をかけてできあがった古典的な花への眼差しは型にはまったものかもしれない。だが三ヶ月の冬も、十二月は十二月、二月は二月で趣がちがう。二月らしい冬であってこそ、次に巡ってくる早春の萌しを喜べるのである。もし自然が創作意欲を発揮して今と違う四季を与えてくれたら一体どうなるのだろう。地球の温度が僅かに変化しただけで私たちの生活は脅かされるのである。四季は変わらないでほしい。そして四季に従って生きていたい。 

日本のいけばなは、外国のフラワー・デザインとかなり異なっている。花を色と形で構成するというだけのものではなく、花の芽生えから枯れるまでの季節の推移を見つめ、その姿をいけばなとしていけ、いまその季に自分の在ることを感じようとするのである。 

一体日本人はいつの頃からいけばなとしての花の姿をこんなに深くみつめるようになったのだろうか。縄文時代まで遡れるのかもしれない。万葉集の時代、平安時代にもその源泉は求められるのだろうが、いけばながいけばなとしての形を整え始めるのは室町時代からである。 

その時代に立花という形式が京都で誕生する。ちょうど園芸が普及しはじめる時期であり、観賞上の草木の生態にも知識が深まってくる。そして江戸時代になるといっそう探求心が強まる。江戸時代人は貴賤貧富の別なく園芸好きだったらしい。そんな時代に京都の大寺院などで毎年恒例としていけばな展が催されるようになり、町人も農民も大勢観覧に集まったそうである。さまざまな人の目に触れるいけばなは、ただきれいなだけではすまなかったのではないかと思う。最初に書いた水仙の季節の推移を精密にいけ分けるという例も、庶民層にまでも園芸が普及していたという社会環境の成果とも言えそうである。 

私自身もそれを実感したことがある。四季咲種の杜若の晩秋のいけ方として、葉先の枯れ始めた葉をまじえていけてみせたところ、受講者の古老が「家元、わしの庭の杜若の葉はまだ青々しとるぞ!」という。「なるほど、そうかもしれないけどもう一度よくご覧なさい。それに先枯れした葉をいけまじえてこそ晩秋の杜若の風情が出るのではないかな」。その後古老は枯れ葉をいけまじえて満足している。教える側と、教えられる側とが持ちつ持たれつ植物の季節を見つめあってきたのが日本のいけばなである。

 京都新聞2月6日夕刊より転載


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