2005年2月22日夕刊 京都新聞『現代のことば』 「きもの」の今 桑原仙齋 タクシーで、御池通から室町を下がって帰宅するとき、運転手さんの五人のうち三人は、きまって「このごろ室町通はあきまへんな」と話しかけてくる。 町並みもずいぶん変わった。戦前から高度成長期までは呉服問屋の町家造りの店が続く通りだったが、昭和四十年ごろからビルに建てかえられ始めた。 そして今、景気よくビルに建てかえられたビルが、次々と解体されてマンションになっていっている。 古い町家の並ぶ六角通から、そのころ、まだ中学生で、妹の友達だった妻の素子は、郊外の私の家によく遊ぴに来ていた。時々着物を着てくることもあったが、普段着として気楽に自分で着ていたようである。 そして着物を着るのがすきだったらしく、自分の好みの着物を上手に着こなしていた。小さいときから着慣れていたからそうなれたのだと思う。何といっても、「きもの」は日本の民族衣装なのだから、そうあって当たり前のことなのである。 ふり返ってみると、着物は高級品から働き着までずいぶん種類が多かった。京都では手描友禅に西陣織の帯、御召から銘仙。素材も絹だけでなく木綿、羊毛も使って日本各地でいろいろな着物地が作られていて、さまざまに利用されていた。お手伝いさんは銘仙か木綿の緋を着て、長い廊下のぞうき んがけをしていたし、母も着物に割烹着で台所仕事をしていた。 着物は不便だというが、日常生活には差し支えはなかったようである。 考えてみれば、昔の侍たちは着物でチャンバラをしていたのだし、私も小学校の頃から剣道をしていたがけいこ着も一種の着物なのである。そして剣道着はいまだに昔のままである。 実用性とは別に、着物は日本独自の色彩感覚と材質感を歴史をかけて育んできた。 実際に私も、母が着物を誂えるとき、よく横で見ていたが、例えば絵柄の一部分を朱色と注文するとき朱色にも淡い洗朱から朱色、くすんだ錆朱までの何段階かあって、どの程度の朱色にするのか、呉服屋さんとの言葉のやりとりだけで通じていた。これはやはり洗練された文化の一面なのである。 おかげで私も一口に赤と言っても朱色、緋色、紅色と幾系統もあって、そのそれぞれが系統に従って何通リにも変化してゆくことを知るようになった。 日本の文化のすぐれた一面を飾る「きもの」がなぜあまリ着られなくなっただろう。 着物姿で100メートル競走の新記録は出ないのは確かなことだろう。だが普段着としての実用性はなくなっていないはずである。専門家に着付けしてもらわなくても着られる着方と使い方は昔からあったのである。 「きもの」は多分高級化しすぎたのだろう。 すそ野をなくして着物はあまり売れなくなったのだろうか。伝統文化は常にそんな危うさを抱えているのかもしれない。 |