2004年6月4日夕刊
京都新聞『現代のことば』

いけばな家元の継承
桑原仙齋



先日(五月五日)、私は桑原専慶流家元を長男の和則に譲った。彼は第十五世家元としての花号を、初代と私の名乗った「仙溪」を望んだ。そして私は「仙齋」と改名した。

私の家では初代(十七世紀)以来「冨春軒(ふしゅんけん)」を家元の軒号としているが、「冨春」という字句は高潔の士として知られる漢の「厳光」を意に置いて、彼が隠棲した「冨春山」、その麓を流れる「冨春江」を思い描いて自分の住居の軒号としたのではないかと思う。

冨春山は中国の浙江省にある山だが、今から二千年前はどんな所だったのだろう。仙人の住んでいそうな山だったのかもしれない。

冨春江には厳光が釣りをしたという場所も残されているそうである。

冨春山と冨春江。「冨春軒仙溪」という号のことを私は勝手にそんな想像をしながら花をいけている。

初代は学識豊かな人だったらしいのが、その著書を通じてわかるが、同時に自分自身の目で花を見、自分自身の頭でそれをどういけるべきかを考えた。

室町時代に始まった立花(りっか)は初代の生きた江戸時代初期までには、かなり細かいところまで生け方の法則ができていた。すぐれた花道家たちの積み重ねてきたいけばなの構成原理ではあるが時とともに多少おかしな所も出てくる。

牡丹について初代仙溪は「立花時勢粧(りっかいまようすがた)」でこう述べている。

「昔、牡丹は珍しい上に貴重な花だったので木の部分を残して花の茎で切り、受筒(竹)を使って立花の下の方に使った。これは当然そうだが、今では栽培がふえたので大きく真(しん)や請(うけ)、添(そえ)にも使う」と言って牡丹一色の立花をいけている。

古典の教えは金科玉条かもしれない。でもそれはもう一度自分の頭で考え、自分の目で見つめ直し、自分の手で花器に挿して虚心にそのおさまり具含を感じるべきことなのである。

そしていけばなというのは、素材を使って創り出すものではなく、生身の私が、花という生きものを手にすると、何ものかをひしひしと感じるそのとき、自然といけ上がっていくものだと思う。

花自体の持ち味(個性といってもいいのかもしれない)と自分自身が無心に一体化したときに、いいいけばなが生まれるように思う。創るというよりできてしまうと言ったほうがよさそうである。

いけばなは大洋に浮かぶ日本という島国の文化として太古から培われてきた自然観を素直に形にできたものだと言える。

部屋の装飾というより、室内に自然との接点を求めた結果だと私は考えている。

造形芸術というより、もっと生身の私たちの一日に近い存在なのである。

日本にも各時代それぞれに多くの外来文化を受け入れて厚い層ができているように見えるが、その厚く見える皮相の下には紛れもない日本の血肉が生きている。その血が思い描いたのが原初のいけばなだと思う。だがその原初の原典を尊重するあまり、自分の頭の働きと、心の動きを封じ込めてしまうと、自分も花も生きてこなくなるのである。私が次の十五世家元に伝えておきたいのはそういうことなのである。

 京都新聞6月4日夕刊より転載


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