桑原専慶流 いけばな テキスト 内容紹介 |
テキストNO.213 1981年3月号 文 十四世家元 桑原仙溪 コメント・・良いものを見極める。・・いけてみて始めて知ることができる。・・ | |||
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白梅 デンドロビューム(ピンク) ミリオクラダス |
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桃 ポリアンサス(白) | ||
梅から桃へ
梅から桃へと季節も移り変って来た。梅はお正月花としていけたあとに稽古では二月の花になる。 京都には梅の名所や言い伝えも多い。古い良い庭のある家には必ず梅が見られるが桃が少ない。宇治の黄檗山万福寺の扉や幕に赤い桃の実が描かれているのが名高いくらいのもので桃の名所や名木はあまり聞かない。以前私の家の庭にも桃の木があったが、濃いピンクの花を見上げる時の四月の青空は、いつもの空より青味が冴えているように感じられる。以前は伏見の桃山に桃の木が随分あったようだが今は家が建ってしまって行って見ても分からなくなってしまった。 梅は寒冷な土地で育ったものの方が良い。厳しい冬を何十年も耐えて来た老梅の枝先に咲いた一輪は私達に何か言葉少なに語りかけてくれている。老僧の前に坐ったような気がしてくる。 梅は楚(ずわえ)が垂直に、斜にのびた大枝、その大枝から出た小枝が複雑に交差しあっているが、形のとりよい花だといえる。日本画にも梅の絵は多い。だから誰もが梅の姿のイメージを心の中に抱いている。いけようとする形がすでに育っているのである。その意味ではいけよい花なのであるが、自分自身で梅の姿の中から違った感じをひき出して来るのはむつかしい。いけばなの方で良い枝ぶりと思われる梅ほどいけてみると形にはまったいけばなになってしまうのである。梅の枝をただ変った枝にいけるだけの所までは誰にでも出来ることだろうが、変っていて、しかも良いものをいけ上げるのには大変な花である。 私の学生時分は殆ど毎日銀座に出ていた。飽きもせず色んな店をのぞくのだが、銀座のことだから、その日、その日と変った物、新しい物が目につく。といって変ってるから、或いは新しく作り出された品物だからと言って全部が全部欲しくなるようなものではない。ただ変っているだけに過ぎないのである。人の目にはつきやすいだけのことである。だが時たま変っていて、しかも本当に良いものがある。変っただけのものは、或る程度の努力で作り出せるだろうが変っていて、しかも良いものは中々出来るものではない。 反対に変りのないように見えるものの中にも質の高低は、はっきりとしている。ごく普通に見えながら、その良さが分かった時見惚れてしまうものもある。私達は変ったものにとびつきやすいが、よくよく見きわめたいものである。と言っても古いものにしがみついているだけでは能のない話で、新しい変ったものの中から良いものをえらび出す力は養なっておかなくてはならない。 梅のいけばなから話が横道にそれたようであるが、それ程変ったいけ方をしていただく必要のない花だと言える。それよりも、手にした枝とよく相談しながら、或る梅の枝は、「あまり無理しないで」と言うかも知れないし、他の枝は「少々無理しても、こんな姿に」と注文をつけてくるかも知れない。そして目新しさをねらうより、一見何の変りばえもないようでいて、見飽きのしない花にいけていただきたい。 梅とくらべれば桃はいかにものんびりした豊かな花である。梅で、しかも苔梅の雛祭では幼い娘達には気の毒である。梅なら京都で三月には咲いているのに、自然の開花期には未だ早い桃が雛祭りの花にされているのも単に習慣や伝承の故ではない。梅を雛祭りの花にしようと思えば故事来歴はいくらでもくっつけられる。幼い娘達に雛の祭りを祝ってやろうとする時の親の気分がこの花をえらび出すのである。 桃は優しくいけたい。花をたっぷりつけた枝を長目にとると賑やかに温かなうるおいがただよう。注意して花をおとさぬよう束をほどき、枝先から水際まで全部が咲ききるのを見られるようにしてほしい。手荒にあつかうと花は皆落ちて棒をいけたようになってしまう。 2ぺージの梅は、デンドロビュームを水盤の右後に2本、梅の枝をすかして見せるようにいけ、梅の水際にはミリオクラタスの葉でそれぞれの枝の足下をかこうと同時に緑を加えている。花器は白磁の古い型のものである。梅は花器の口から高さは40B位のものだが、前後の奥行は約80Bとっている。それだけ奥行をとっておくと枝の重なりが美しく見られる。梅のように枝の交差する花は奥深くいけないと、乱雑さだけが目についてしまう。 3ぺージの桃は高さ約60B、左側は水の中まで枝を見せていけた。下の方の花も見せたいので、そのようにいけたが剣山は小石でかくしている。 ポリアンサスは白花の小鉢植えのものをそのまま水盤にいれている。 花器は染付。家に古くからある水盤の中でも私の好きなものの一つでこの花器にも随分色々な花をいけている。晩秋から春先まで、木瓜、桜、梅、桃と同じバラ科の花木をいけ移って行くが、それぞれの共通点と相異点。見てるだけでは感じなかったものを自分でいけてみて初めて知ることができる。そして知れば知る程感じとるものも多くなって行く。 1981年 3月号より | |||
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