9月号
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かん九・うみんずる桑川相山寸度流いけばなテキスト桁ひ仙粛彩歳私がはじめて読んだ「三国志」は有川英治の三国志だった。曹操、劉備、孫権の三将の闘争の話だが登場人物が多く誰が誰の味方か敵か途中でわからなくなる程人間関係が複雑に絡み合っている。その後色んな人の翻訳した2010年9川!日発行(毎川I川!日発行)桑以専底流家兄発行国志、を読んだが、どの本でも決まって町操が悪役で劉備が人徳者、孫権はまあまあの京主。いわゆる三国志は明時代初期の羅賞中という人が民間の伝及をもとにして描いた神史小説である。そして量日中の作ゑ肋書きに合わせた人物像を設定している。或いは民話が勝下に解釈した話をもとにしているよ、つである。何しろ一二同時代から千年も経ってから作られた小説であり、中国芝居の脚本のようなものなので、千年もの問、民話として語り継がれてきた話を変えられなかったのだろう。曹操を徳の高い武将、劉備を校い軍定価五−−バ川22U一\\愛者名・一内cgm凶宮町凶「∞的。口一内巴−noヨ問としたのでは誰も読んでくれる人はなかっただろう。私ははじめて読んだ占川英治の三国志で、どうも劉備が好きになれなかったのだが、中間の歴史芥を読むと曹操は当時傑出した将軍だったらしい。その上知識人としての著作もあり、漢末の建安文μT乞代表する詩人でもあった。漢詩もその頃から新風が起こり、峯大白や王維のよ、つな心情を志士直に詠みこむ府詩につながってゆく。中国映画の「レッドクリフ」は赤壁の戦いの映阿だが、その小で「前日操軍は八十万」と孫権と劉備が本当にそうなのだろうかと考えこんでいたが、当時の三将が支配していた州の総人口は丘百万人ぐらい。その前の漢の隆盛な時代の六千万近い人口が続く戦乱のために十分の一に減っていたそうである。そして梓操の支配する貌の人口は二百五卜万ぐらいでしかなかったと牟えられている。従って劉備と孫権の兵員も伝〜えられている人数よりずっと少なく、ぃ亦哩の戦いも映画のような大がかりなものではなかったらしい。貌のあとを、つけた晋の陳寿が貌志、街志、民ハぶという二.同の.止史を書いているが、これが正式な「三国ぶ」で、小説としてのこ同の物語りは「三国演義」とよばれている。長々といけばなに関係のない話を続けてしまったが、私には中国史が面円くてたまらないのであるひょっとすると、恥のいけばなにも影響しているかもしれない。カラ1.一色(閉じ伸子科胡蝶蘭(蘭科)ニュlサイラン(龍平川州科)方形陶水盤薄紅の花〈ロ頁の花〉花器←化材仙蔚)

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