9月号
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十・,念4Fしるぶどう’レe−deすきゃい花になるかな?八表紙の花〉小さくても、家の庭は見飽きないものである。季節が註文しなくても植込みの衣替えをしていってくれる。と云っても季節に委ねて手を扶いていたのでは快い日々の送れる住居にはならない。明けても暮れても手入れと掃除。春は椿や他の常緑樹の古葉が落ちる。夏は雑草の芽摘みと朝夕の水遣り。秋の落葉。冬は二十本ほどの椿が毎日沢山の花を散らせる。私もたまに手伝うこともあるが庭の手入と掃除は植木屋さんと、素子が欠かさず続けてくれている。私は飽きずに気分よく庭を眺めているが、それは丁度御馳走の並んだ食卓に招んでもらっているようなものなのだろう。そんな庭でも、何が気に入らなかったのか枯れてしまうのも居る。作例としていけてみた小品花の蓄積の根も殺虫剤をかけ、肥料もこまめにやったのだが枯れてしまった鉢植えである。捨てる前に土をはらっておこ、?としたところ、根が何かに使えそうに思えたので洗ってみるとご覧のような小品花の主材になった。とりムロわせたのは、花屋の隅っこで見付けた小ぶりの風船葛と、台所の冷蔵庫に入っていたプティトマトである。その二種を蓄積の根からぶらさげたり、のせたりするだけの簡単な小品花なのだが、そんなとり合わせでいけてみるのも楽しい一時である。花材風船葛プティトマト書識の根花器白色粕点線文花瓶夏も終った、と感じるのは何時頃なのだろう。季感事』大切にしながら暮らし、その折々の美しさを生きていることの区切りは定かなものではない。零度以下の日も多い冬の日は早く終ってほしいという気持ちから、まだ雪の日もある三月は春に入れられている。そして立秋は八月の初旬だが、まだアスファルトを敷きつめられた都会の気温は四十度近い。だがお盆を過ぎる頃、昔からお八つに食べてきた小粒の葡萄が店先に積まれているのに気がつくと、幼い頃からの初秋の記憶が匙ってきはじめる。同じ葡萄でもマスカット・オブ・アレキサンドリアから魁えってこない想いなのである。少しづっ進んだり戻ったりしながら秋は深まって行くが、小粒の葡萄、タ霧草、縞薄、コレウスを竹箆に盛ってみると紛れもない秋の感鯛が伝わってくる。夏過ぎて八2頁の花Vべ標にして来た私達日本人だが、その2

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