9月号
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五月は葛焼き、六月は紫陽L花さいか青楓。これは毎月の研修会の中休みに出しているお菓子の名前である。和菓子は季節の表情に敏感である。まだどれぐらい好きなものが胃につ良いお菓子屋は売れるからと云って月々の風物に外れた品は作らない。レパートリーが豊かなのである。お正月の花菱餅をはじめ、季節が巡ってくるのを待って味わうその味には人それぞれの歳月のほのかな幸せが包みこまれているのではないのだろ、っか。その想いをよびさます因として和菓チには花に因んだ銘、それ以外の名前にも必ず季節の風物が床しく織りこまれている。私がいつも感心しているのは釘殴のお菓子である。材料は町船と断附に自の漉館に色付けしたものだけなのだが、それが季節を追って一年中様々に作り変、えられて行く。「雪の下崩Lと聞かされて成程と話が弾み、花の自然を想い浮かべ、淡紅の飴を誌で包んだ「水牡丹」の上品な色。京都のお菓子は材料の持味がよくわかる程度に甘味をおきえ、しかも小振りに作られている。甘いもの好き、甘党には物足りないかもしれないが五感をかけて味わう美しさには丁度よい分量なのだろう。花とお菓子「菜種」が出されて菜の量が多くて気分の良いのは西洋料理のデザートである。フルコースの最後の肉料理のソースまですっかりお腹におさまるとデザートのメニューを持ってこさせ、めこめそうなのか思案するのは気分のよいものである。そして食後のブランデーを舌でころがしながら葉巻をふかしているときほど豊かで満ち足りた一と時が他にあるだろうか。ついでに書いてみれば中国料理のデザートは不思議なものである。次から次へと出てくる料理を食べ終る頃には苦しいほど満腹してしまう。ところが中国料理のデザートは消化を促進するものが五千年の知恵で選ばれたのか食後は不思議と胃の調子が良い。静かに味わ、っ京菓子の話から騒がしい食事の話になってしまったが、考えるまでもなく、現在の私達の生活は多くの要素が複雑に混じり合って統一のとれた暮らしか成り立ち難い。だが日本という風土に住む限り和菓子の味わいに象徴される暮らしの美しさを忘れてはならない。そこには自然に対する畏敬と親しみが融和され、どのような生き方をしてみたいのかと考える核が包みこまれているのではないかと思う。日本に生まれた自分を知るには日本を知るより他ないのである。あ8

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