9月号
103/608

迎の花が咲くときに音をたてて咲く、といわれる。これは事実とは迩うようである。私は数十回も述池に入って早帆のしらじらあけを迎えたが、蓮の音をきいたことはない。ただ~蓮花の咲くときには花弁がぼとひらいて、音をたこる様な感じをうけるが、音をたてるほどのことはない。一種の形容詞が一般に誤って伝えられたものであろう。蓮切り用の小さい金屈製のこんろを作ったことがあった。これを池の切畔へ持って行き、熱楊を沸かしてりとった連の足もとを、煮るわけだが、午前五時頃に述池の岸辺で、炭火をばたばたといこしている私逹をみて、「あれ変な人達が米ているよ」と付近の人にあやしまれたのも当然だったと息う。とにかく、どうすればよく水揚げるのか、ということに一生懸命だったころの話である。そのころはH動車などという気のきいたもののない頃だから、自転車の後に手桶をくくりつけ、水を入れて蓮の花葉をつけて持って帰った。とにかく体裁かまわずの時代だった。c c戦前のころの花追家仲間では蓮の水揚というと、一種の競技会のような咸心じで、少しでも長時間もつというのが自骰の種となっていた。各流の先生方が水賜の方法をかくしあって、競争邸識が中々に大変だった。辿にかぎらず梨閲を百枚活けたとか、一瓶に柳を一二百本入れたとか、そんな低俗な趣味があって、生花のうるおい、新鮮さといったものから離れたような、わるい趣味のものが多かった。ことに蓮といえば、そのいけばなの美しさよりも水揚の時間を競いあうといった謁子の観念があって、悪い下町情銘といった程度の低い杓え方がほとんどだった。もちろん少しでも長くもつことは理想だが、その意識がすぎていけばなの本質的な美が忘れられるようになっては意味がない。水揚が秘仏だった時代は、いけばなが最も低俗趣味に落ちこんだ時代だった。今nではいけばなのもつ形、色彩、慇覚が上であって、水楊はそれの補助的な役目をもつものといえる。.... っ11

元のページ  ../index.html#103

このブックを見る