8月号
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半夏生(はんげしよう)は三白草ともいわれ夏の野山でどく普通に見かける野草である。日蔭蔓も半夏生と同じような湿地を好み、京都市内でも山麓の木立の深い庭園にも自生していることがある。乙乙で使ったのは立日蔭とよんでいる日蔭蔓で万年杉ともいう。先月号の五頁の三図の水盤にしきつめられているのが日蔭蔓で乙の方は横に這いのびる。日蔭蔓がよく使われるようになったのは明治以後の盛花で苔庭のような感じを山すためのものである。その頃には水物には拝草(うきくさ)花木や陸草には日蔭蔓を使っていたようである。現在でも花屋にはそうした花材は用意されているが、盛花も盆景(ぼんけい)のような日本庭園の感じを写しとることよりも、自然に対してもっと広い視野をもつようになってからは、いけ花の一分野として残っている。上図では半夏生三本の白い部分を際立たせるように姫百合を三輪その聞にいれ乙んでいる。水盤の右半分には日蔭蔓の聞から女郎花を立ち上がらせている。とりあわせとしては盆景的なものであるが、いけ上がった感じはそうではない。夏の野趣をざつくりとりいれたいけ花である。今年は祇園祭の祭行司の役が私の家にまわってきた。六月の中頃から祭の終る七月一杯までは、他の仕事に手が出せないくらい、次から次へと祭の世話に明け暮れる。私の町内からは「浄妙山」が出るが、宇治川の合戦で一来法師が浄妙の頭上を飛び乙えて先陣を争う所をとらえた人形を飾っている。浄妙に肴用させている黒章繊肩白胴丸の鎧は重要文化財であるが、そんなものが何点も使われている。祇園祭の鉾や山には見送りゃ胴掛には中国をはじめペルシャやヨーロッパの染織品の逸品が数多く用いられているが、応仁の乱後市街を復興させ、安土桃山時代に、今日の祇園祭を定着させた京都の町衆の豪放さと明るい審美眼は今日の我々も失つてはならないものである。祭が始まるのは七月一日の吉符入りという神事始めからなのだが、それまでに、ちまきの注文、昇方(山をかつぐ人)のわらじを挑えたり、行事の進行についての打合せ等当番行司の仕事は多い。今年の吉符入りは私の家の二階で行なったが、「八坂大神」と大書した掛軸をつり、その前に、神酒、撰米を三宝にのせ、正装で祭神を杷り「祇園祭」行司の野趣女郎花姫百合半夏生(はんげしょう)日".蔭蔓(ひかげかずら)花器褐色粕水盤夏4

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