8月号
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⑪ こ。t り入れられているものは、頼政の宇治橋、蝉丸の長等の橋などその他にもありますが、いちばん有名で華麗な舞台を見ることのできるのは、こ物語を設定していますが、これにつ頭と赤頭の獅チの舞はけんらんとした舞台が演出されます。能楽の中にある「栢」について考えてみまし⑪能楽石し橋やつきよう能楽の中で栖をその物語の中にとの石栢(しやつきよう)でしよう。石橋は中国の清涼山を舞台にしていて「佐成謙太郎氏著、謡曲大観」の中の解説を転載します。(梗概)大江定基出家して寂昭法師と号し、入唐渡天して仏跡を拝み廻り、清涼山に来て石橋を渡ろうとすると、一人の樵夫が出てこの栢は昔の高僧すら難行苦行した後に初めて渡る橋で、容易に渡るべきものではないといさめ、栢のいわれ等を語り「向いは文珠の浄土で今に奇特があらわれるだろう、しばらくお待ちなさい」といつて去る。果してその言の如く牡丹の花をわけて獅子があらわれ、雄壮華麗な獅子舞を演じて見せる。以上がこの能の筋書きですが、白京の一条戻り柄は有名な名所です。常磐津の所作事に戻り橋で鬼女にあった渡辺綱が、その片腕を切り落したという伝説が舞踊化されていますが、京都堀川にかかる「戻り橋」は伝説の中の有名な史蹟であるにかかわらず、今日ではすつかり見捨てられて粗末な鉄骨の栢となつています。この写真は石に「戻橋」ときざまれた年代のたったものですが、これだけがどうやらその而影を残しています。この橋柱は彫刻的な力強さを見せており、ここにふさわしい感じをもつています。栢ぎわに立てられた高札には次の様に記されています。R 条戻橋R もどりばし写真B.C.E.F.G.H「延喜十八年(九一八)文章博士三善清行がなくなったとき、父の死をきいた子の浄蔵が紀州熊野から京都へはせ帰つてみると、その葬列が丁度この栢の上を通つていた。浄蔵は柩にすがつて泣き悲しみ、神仏に熱誠をこめて祈願したところ、不思議にも父は一時蘇生して父子物語を交したという伝説によって、戻り栢と名付けたという。」「太平記剣の巻によれば、その頃、源頼光四天王の一人であった渡辺網が、深夜この柄の東詰で容貌美しい女にやつした鬼女に出逢ったという伝説もあるところである。」(京都市)とにかく劇に舞踊にとり入れられている有名な橋ですが、あまりにもわびしい今日の姿です。(専渓写真)石橋のある風景t-、クID ,

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