7月号
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EuarWyu トルコからエジプトへ(T一URK)が始めて東洋史にあらチユルクEE 花と歩くyE トルコは変選の多い国である。6世紀モンゴル高原を支配し、唐帝国と抗争を繰り返した「突厭」われるトルコ系民族である。イスタンプlルは紀元前7世紀、ギリシア人が植民都市を作った頃からこの街の歴史が始まりビザンティウムとよばれていた。ローマ時代、コンスタンチノiプルとよばれるようになったのが4世紀。日世紀になって、その頃小アジアのオスマン・トルコが勢力を拡大し、日世紀にコンスタンチノiプルを占領し、日世紀にはシュレイマン一世によって更に西に進出しウィーン近くまで、そしてギリシア、エジプトからアルジェリアに至る地中海南岸全域を領有するその時代最大のオスマン帝国が出来上がった。従ってイスタンプールにはギリシア、ローマその上にオスマントルコE 北良県になる場所を見つけて花をいけるのは無上の喜びである。③の写真で私の左に居る子供とは素子がすっかり仲良しになって、毎朝沢山買入れた花をバザールの外にとめておいたミニパスまで運んでくれた。だが「一体あの子は学校に行かせてもらっているのだろうか」と素子は心配していた。収入はH本人の何分の一かだろ、フが明るく生き生きと暮らし、こすっ辛そうに見えて案外人の良いのがイスタンプールっ子なのかもしれない。メソポタミア、エジプト。私達の習った世界史での文明はナイル河、チグリス、ユlフラテス両河の流域、「船山な一→一小町地帯」(司里丘一ぬロこから始まった。紀元前三千年頃のことである。トルコでロ作とり終ってエジプトのカイロに向かった。着いたのは夜のロ時近かったが翌朝すぐに花屋探しと花器の調達に出かける。ここでも花屋は少なく、あっても貧弱な菩蔽とグラジオラスぐらいしかない。だがカイロの街路樹として植えら3ωσ写真①l④エジプト・バザールの鉢純物私達のいけばなの旅は今年で三年自になる。私がは山才、素子がωオの年から始まった訳だが、一つのまとまりのつく仕事にしようと思うと、やはり五年はかかりそ、つである。写真をとるにしても、対象がいけばななので、やはり春夏秋冬と四李を入れたい。となると取材先が海外なので何とか年一回出かけることができても四年。そしてそれを整理して一冊の本にまとめるのに半年はかかる。夫婦が高齢化してくると、人が揃って健康でいられて一緒に充分な仕事にかかれる機会はだんだん少なくなってくる。今の五年がかりの仕事が完成したら又次の計画を立てて、皆さんや子供達に贈りたいというのが今の私達の願いである。①l⑩はイスタンプiルでの一画。毎朝ここに通ってその日の花材を仕入れる。話し始めるとすぐにチャイ(紅茶)が出る。丁度イスタンプ!ル滞在中の湯藤さん(師範)が手伝いに。①⑥⑦コlラ教会の前の二⑪ 6

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