6月号
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橋〗雲砂臥が東山の山裾には楓の名所が多い。東福寺の楓は方丈と、聞山堂の間を東西に流れる洗玉澗とよぶ渓流にかけられた通天橋を中心に、上流の偲月橋、下流の臥雲橋まで谷問を埋めている。一応は名所にはなってはいるが、修学旅行がバスで押しかけて来るような所ではない。私の生家(大市)は臥雲橋を南に渡った所に、洗玉澗にそって建っている。戦後暫らくは、ごくまれではあるが狐の鳴き声とおほしい声を聞いたことがあるし、私自身庭先で狸をつかまえたこともあった。真冬の深夜、鐘の音も終った後、狐の鳴き声を聞いた三十年前と今と殆んど洗玉澗の谷間の風景は変っていない。十五年以上前になると思っが、台風の大水で通天の橋が大音孵と共に崩れ落ちて流れた事があったが、それも完全に修復されて昔通りである。楓の東福寺も今五月は、緑に染まるとか、緑滴(したた)る、緑蔭という言葉そのままの季節である。私の家も、部屋の中まで緑色に染まってしまう。緑蔭という言葉は、ここで暮して見ると、木蔭(こかげ)と言う、ただの日影とははっきりと違うことを感じる。それも僅か、楓の若葉の頃だけで終る。やがて笹百合の咲き始める六月になると、遠く山崎の辺りから梅雨の晴間に、低く棚引いたような雲の上に東福寺の屋根を電車の窓からよく見たものであったが、京都も、大分南の、所謂下(しも)の方ではあるが東福寺そのものは、稲荷山の中腹にあるように見える。山地でもあり、楓に向いた谷川もある湿気の多い土地柄でもあるせいか、春先きの貝母から、秋の貴船菊等、年中の草花も始末に困る位よく繁殖する。面白いのは庭の苔で、その年の植木屋さんの枝の刈り込み加減で、日の当り具合が変ると、庭の杉苔が、びろうど苔の領分に侵入して来たり、次の年には杉苔が追払われたり、それに長梅雨の年など、いやな感じのする、ぜに苔とか言うのが、いつの問にか、まるでかさぶたのようにひろがり出して、はがすのに一苦労したりする。夏の間、楓はさわやかな涼気をたくわえてくれる。特に屋根より高い楓は、大枝が一枚のひろがりになって幾段にも重なり、その間は、涼気の戸棚のようなものである。風がその涼気を運んでくれる。夏休みの頃はその楓に蝉が数知れず集っる。東福寺の境内に蝉取りの子供が来だすと、東福寺中の蝉が私の家のて来庭に逃げこんで来る。夜、電気がついてから網戸をあけようものなら、二、三十匹は忽ちとびこんでくる。秋はいくら観光コースからはずれてるとはいえ、日曜祭日は人出は多い。臥雲橋がかかって居る通りが、東福寺の本堂への道なので、一日中橋板を渡る人達の足音が絶えない。橋の上を渡る足音で面白いのは、多人数がバタバタバタと馳け走る音がすると、必ず時代劇のロケーションである。どの監督もこの橋を見ると追いかけ合いの場面を考えつくらしいように思える。この橋が一番東福寺という禅寺にふさわしくうつるのは、晩秋の朝、大勢の雲水さんが口々に応報(おーほー)と唱え乍ら、わらじばきで、音もなく一列に渡って行く姿であろうか。やがて紅葉も落ちつくして冬木立の東福寺となる。葉がおちつくすと二階の奥の部屋から、通天橋も、開山堂まで庭続きに見渡せるようになる。丈の高い通天楓の枯梢にかかる星を谷の下から眼め上げると、まるで、すみきった湖の底に居るような心地がする。その頃には夜たまに、橋を渡る人の足音も足早に、暖い部屋の中迄聞えて来る。通天楓の木枯しが除夜の鐘の音とまじり合って、この橋のたもとの年が終る。一桑原隆吉楓樹の中に四帖半の茶室がある。明り窓に丹波焼の花瓶を置き,れた。おだまき草を二本入12

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