6月号
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荘重躍動典雅の舞専渓ある能楽の研究は、私の人生にとって大変な。フラスになったわけです。あくまでしろうとの弟子としてここまで来たのですが、観世の京都能楽堂で杉浦義朗氏と浦田保清氏に謡と舞を10年、その以前は小学生時代から成年まで梨木神社の宮司さんであられた野村敷明先生に子飼の弟チの様にして謡と舞、それに国文と漢文、和歌の講義まで習って、とにかく私の青年時代は、古い日本文学の勉強と能に関する研究に打ち込んだものでした。私にとっては、これがいけばなの中の大きい。フラスになったと思っています。三番三(さんばそう)のおひらきをさせていただいたのは一昨年の五月でした。能の中でも最高の曲といわれる「翁」の中に、狂言方の舞う三番三は、普通では中々許されないもので、まして素人の弟子の舞えるものではありません。茂山門下でも索人の弟子としては二人目だそうで、中々大変なものです。お免状をいただいてその帰るさに京都御所の御苑内を歩きながら、感激の涙を流したものでした。なにしろ能の世界はあくまで実力主義で、全く体あたりの芸術ですから、いよいよ舞台に立っては自分の芸は自分の責任においてやらねばなりません。その時点では先生のたすけを得ることは出来ませんし、い終えることの出来るのも、はずかしい思いをするのも、それはあくまで自分の勉強の結果ですから、壼びとわびしさに徹した、まことに峻厳な芸術といえます。その点、華やかな舞台の中で全くわれひとり、という孤独な芸術でもあり、この自分が自分の責任をもつという芸のあり方に大変な魅力があるわけですが、寸分のすきのない組み立ての中に、のびのびと萎縮しないように舞い納めるのは、全く大変なことなのです。咋年四月十七日、宮島厳島神社の奉納能楽に「三番三」を舞わせていただくことの定ったのは、その数か月以前でした。それ以後は稽古も三番三ひとすじで、段」の二曲を数十回に及ぶほどはげしい榜古をつづけたものでした。三.. 番三は芸事を通じて天下泰平を祈念するということが主意になっており、この舞の出演者は数日間、精進潔斎してその日の無事につとめ終えることを、神に祈念するという厳しい教えがあるのです。ことに神前で奉納する三番三は身も心も清らかにして偵しむ、という完全に舞「揉の段」「鈴の③ ⑤ ことが心得になっています。厳島神社の桃花祭は四月十五日に始まって、その後に奉納の能狂言があります。十七日の午前十時、厳島の海はようやく潮が高くなり、朱塗りの鳥居も波の中にそびえ立って清浄な慇党があたりいちめんに満ち満ちていました。荘厳に身もひきしま8 ② さん三私が茂山千作先生に狂言を習いはじめてから、すでに十年を越えました。謡や仕舞を習いはじめたのは小学生の四年くらいの時でしたから、その後三十年ほど、少なくともこの道では相当なキャリアをもっている、ということになりますc.なにしろ花道が本業ですから、その他のことはすべて花のために役立つ勉強をしているわけで、舞台芸術の基礎でそう三写真②④ 鳥居の見える舞台鈴の段り.... ' ワ円量もみの段を舞う曲を終って面と鈴を千歳の前にー・. ヽ楽屋で出を待つ, .. 番ば11 ;・,. が?~~~

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