6月号
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方向をむけはじめた。そして能の世界から離れて、洋画の二科の研究所に入った。そしてまだ写実主義の油絵の盛んな頃であったが、洋画のもつ近代感覚をある期間、勉強して私の花にとり入れることを考えた。やがて、花の前衛的作品を作ることに考えつき、中山文甫氏や勅使河原蒼風氏とともに、東西呼応して、いけばなの前衛芸術として先駆的な役割をもつようになった。この前衛運動が戦後になつて「前衛いけばな」という奇妙な名前をつけて、流行となったのは皆さんもご承知のことと思っ。さて、私達の桑原専慶流に伝わっている「立花」は、江戸初期の桑原専慶から今日まで、花道の古典として実に尊敬すべき伝統をまもつているのだが、いけばなは、古典伝統をまもつてその技術形式にのみ留まる性格のものではない。常に時代の推移と生活の変造によつて、その性格も変り形式も変つて行くのが当然である。ただ、どこまで行っても変りないものは、技術の優れた作品であること、品格の高い作品であること、そして美術的な内容深い作品、現代の美術として新しい感覚をもつ作品であること、これらは実に大切な要素である。それがためには、常に怠りない不一種のる。断の勉強をつづけることが大切なことはいうまでもない。私達は花の勉強をするために、花だけを修業するというのが本筋の考え方なのだが、いけばなを芸術として昇華させるためには、いけばなの世界だけに満足しては充分とはいえない。自分のいけばなをいけばな以上にさせるためには、常に広い世界に目を向けて、その広い分野から「美の感動」を求める様に勉強を怠つてはならないと思つのである。古典を勉強するためには、最も蒻敬する伝統芸術を理解することが大切だし、同時に現代の芸術への理解を正しく知ることも大切なことであ私の「三番三」のお話から大変な話題にひろがつてきたようだが、もう一度、しめくくりに「稽古のきびしさ」についてお話してみることとする。ここに掲載した写真は、5月31日京都観世能楽堂にて、出演中の桑原専渓の「三番三」の舞姿である。私の舞台姿を皆さんに見ていただくのが目的で、この写真を掲載したのではない。ただ、「けいこのきびしさ」について、私達のいけばなと比較して、変った面もあるし、参考になるところも多いと思つので、早速ながらこれを話題にとりあげてみたことである。大体、私は舞台芸術が好きである。もちろん好きだというのには深い理由がある。音楽の演奏にしても、クラシックバレーも、モダンバレーも優れたファッションショウにもできるだけ時間をさいて見ることにしている。優れた舞台を見て泌ずることは、出演者がそれぞれの自分に対して直任をしつかりもつていることである。もちろん、よい加減な程度のものもあるが、それは観衆が必ずそれを見破つて評価を定めてしまう。私達、素人の出演者は、どうせ素人の楽しみごとだから、と一応は思つているのには違いないが、それでも舞台に登つて曲が始つてしまえばそれが上手であろうと下手であろうと、新米の弟子であろうと古参の弟子であろうと、一様に自分のできる限りの芸をご披露するより仕方がない。中途で先生のたすけをたのむことは絶体できない。絶旬しても、行きづまつても助け舟を出すことができないし、笑われるのも賞められるのも全部、自分の責任においてである。私達、いけばな人からみると、この点に魅力があり、羨望される点でもある。それだけに素人といえども厳しいし、ここに舞台芸術の深い昨敬を感じるのである。日頃、けいこを怠ったものは、舞台であらわれるし、努力を重ねたものはその結果がそのままあらわれる。ことに、その出演者の品格がたちまちうかがわれるし、その人の日常生活までも想俊される。まことにきびしいものであるし、また嫌悪を感じる場合もある。それだけに素人といえども真剣になる。私の「三番三」はこの古を始めたのだが、笛にあわせて舞う30分の舞台は、実にむつかしいものであった。ことにこの春は花展や重要な花道の仕事が引きつづいて、舞の稽古もとく休み勝ちとなつて、漸く五月に入って毎日稽古ということになった。私の尊敬する茂山千作先生の連日のお稽古は、連日休みなく続いて、努力の連続であった。はげしい舞の形の習得に体力もつきはてるほどの猛烈な稽古だったがとにかく、稽古の出席には10分とおくれることなく出席してけいこをつけていただいた。先生もお大変なことと、只々恐縮するばかりであった。それにつけても思い出されるのは昨年の春ごろ、東京の狂言師野村万蔵氏が令弟の悟郎氏に、この三番三の稔古をつけられを場面が、テレビで放送されたことがあった。場所は失念したが、埼玉県かのある農村の神社の能舞合で、幾たびも幾たびも繰返して、三番三の舞を教えられる風景。実にきびしい場面を見たこと一月より桔があったが、私には深い印象を受けたのだったが、その場面が自分にふりかかつて来ようとは、まことに意外であったし、さて、実際にあたってみると、自分の知識のむなしさ、目分の芸の拙さと記憶力の浅さに切歯するのみであった。若し、いけばなで、こんな程度の稽古の努力を重ねたなれば、どんなに進歩することであろうかと、わが道のことを考えて、素人弟子のわびしさをつくづくと感じ入った次第であった。来年、四月十五日に厳島神社の舞台で、この三番三を舞わせていただくことになつている。拙い舞姿を国宝の舞台で奉納することは無上の光栄だが、なお、一年の精進をつづけて万仝を期したいと忌つている。以上のお話は、いけばなを習う皆さんには関係の浅いお話のように考えられるが、秤古のきびしさについて、なにかの御参考にもなれかしと思つままに記した次第である。芸術の美に対する感動は、それが古典的な様式のものであっても、現代の新しい様式をもつものであっても、それがもつ内容の高さによって生れるものである。私達、芸術の逍にたずさわるものは、ひろい分野に目をむけて、それを摂取することを心がけねばならないと思っ°12

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