6月号
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5月13日から東京へ行く。いろいろの用件があって今度は神田の「山の上ホテル」と麻布の「。フリンスホテル」の二つに宿泊した。。フリンスにはすばらしい日本庭園があって附近に外国の公使館、領事館などが多く、外人の宿泊客が多い。山の上は近くに東大があり、その他の有名大学が多く、宿泊の人達も教育関係や文筆関係の人達が多く、古くからそんな性格に適する様なふんい気をもっている。プリンスのホールに近い一室でちょうど「染織の古伊勢型紙」の展示会があり、時代染織の工程に関する輿味深い作品をみることが出来たが、それにあわせて同室に、日本の時代色豊かな古い家具類の展示があり、棚、帳たんす、文庫の類がゆったりとした一室にならべられてあった。私は旅行をするたびに、行くさきざきで、いけばなの道具に使えるような面白いもの、郷土的な特長のあるものを見つけ出して、よいものをみつけると、すぐ手を出すのが習慣のようになっている。この。フリンスホテルの展示会で古い時代の机と小さい古銅の香炉を買とに届いている。いずれもいけばな用に使う目的なのだが、とにかく私の家には永い年間のうちに、こんなにして集まったものが、段々と陸き場に困るほどあって、へたな陶器屋、古道具屋という景観を呈している次第なのである。し、いつ、どこへ行けば買えますか」という何問をよくうける。「そうですねえ」と、この種の質問には困るのだが、実際は「そんな考え方だから中々すきな花器も買えないのですよ」と心の中で思っている。必要だし、それぞれの好みにあう花器を買うには、いつ、どこで、などといわずに、いちばん必要なことは気に入ったならば「すぐ買わなければチャンスをうしなう」ということである。次になどといっては中々買えるものではないし、音楽会の券に五000円も使うお嬢さん方が、二000円になる。合も、大体一個五万円程度から二、ったのだが、これはすでに私の手も「先生の家の花器は活けやすい花を習う以上、ある程度の花器は値段の高いものもあり、またこのの花器さえも買わない、という結果私は専門家であり、道具を買う場三十万円程度というのが普通になっており、今日、その程度でないといつまでも使える様なものもなく、安価な道具類は結局おき場所に困ることになって、厄介至極のガラクタになる。いつ、どんな花を挿けても、それにふさわしい形と、感党をもった花器、花台ということになると、買うときによく選択して、見きわめて買わないと失敗することが多い。花道家としてすでに一家をなしながら花器をもたない人逹が多い。必要なときに借用すれば、といった考え方は自分の仕事に熱情をもっていない、ともいえるし、自分のものでなければその花器に対する愛梢もなく、その想い出も少なく、結局はその人のいけばなも熱情のない作品となる、と思うのである。ふと気づいたまま、すきなことを書いてみた。何かの参考になればと思うのである。話はかわるが最近、陶器の窯場をあるいてみると、松割木を使ってや<窯が段々と少くなり、E屯気がま、重油がまなどに変身してきているのが多い。私どもは焼成の工程そのものよりも出来上った作品そのものに重点をおく。これは当然のことだが、松で焼く作品と電気や重油で焼く最近の作品を比較してみると、その外形はともかくとして、作品のカという点について、最近のものは廿く弱くなってきているのに気づく。のめりとした外観のものが多く、カの抜けたような壷をみるたびに、その残念さはひととおりではない。京都焼の花瓶など、ことにこの感が深い。展覧会の出品作などにはカ作が見られるが、一般的な作家の作品は屯器窯のものが多く、のっぺりとしたそと見のきれいなものが多く、個性の強い強烈な作風というものが段々少なくなっている。陶芸家のお宅を訪問しても文化住宅の様な生活に変わっていて、中堅の陶芸家もきれいなサラリーマンの風采に変わってきているのが目に立つ。松煉にまみれた陶器の工作場というのも姿を梢してしまって、住宅の一部に電気がまが置かれているという有様は、これが作品にもそのままのうつり変わっているのではないかと、淋しい思いがするのである。古い時代の陶器や工芸品にあるような手作りの気愧というものを、私達は望むのだが、きれいごとの小さくかたまった作品をみるたびに、私ごとのように落胆するのである。来年春出版予定の「生花の本」の作品写真を、この四月からとり始めている。「厚ものさくら」「つつじ」「かきつばた」「えにしだ」「ぽたん」の五作をすでに撮影したが、きのう(5月23日)第三回目の写真とりをした。一昨年来、立花の写真をとりつづけたが、随分手数のかかるもので、よい作品を作って写真にしたいと思うのだが、時間の制約があって満足できるような作品が中々出来ないものである。今度は、「生花」というのだから少しは簡単かと思いながらとりかかったのだが、これも中々制約があって、つくづくむずかしいもの、と思いしらされている次第である。今度の本は「教科書」的な性格があり、現在、皆さんが習っている生花の某本的な本という条件があって、当然、初歩的なものから高度な作品にまで及ぶ、という必要があるので、作者の思うままのよい作品だけ作ればよい、というのではない。流の生花をどう解説するか、という問題と、一作ごとにはっきりした作品でないと誤解をまねきやすい、という制約もある。また、四季にある材料のうち、生花として必要な(ぜひ知っておかねばならぬという生花の花材)花の種類を選択して、活け、これを写真にとる。もちろんカラー写真で大型の本に掲載することになるのだが、このページが約50ページ、別に四季の生花図(色刷)を50点、これに解説を加壷と台の話撮影風景10

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