5月号
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び人6頁の残りのチューリップの他に、黄色系の大輪種の一輪を加え、八角蓮をとりあわせてみた。この最近の輸入種のチューリップは、服飾品の広告のイラストレイションやショウウインドウのディスプレイ等テザイン部門によく使われているト守つである。今月号の婦人雑誌に、この種のピンクのチューリップの葉をとった大チューリップきな束を横に寝かし、その前に散らした花弁の上に、指輪がのせられてした。さわる人々の材料集めが相当広範囲に及んでいることに感心している。大きな口の広い方ラス壇に、桜の大枝や、季節のめ村を大量に一種挿ししたのを見るが、店内全体ともよく調和している。花を使ったデザインは別に目新しいものではないが、この仕事にたず又、ウインドウディスプレイにもそれを見ると私は、平安時代、歌合わせの会場に装飾として、いみじうおもしろき枝の五尺ばかりをいと多う」、「おおきなる瓶に挿したるこそをかしけれ」と記されている、当時の原初的ないけ花の姿を想い起こしてしまう。そんなことを考えながらこの二作をいけてみたが、これはやはり現代のいけ花である。花材チューリップピンク、紫黄色八角蓮花器トルコブルl花瓶けたくない。花をいける前にまず自分の生れて「桜の以来、心の中に積み重ねられた良いもの、美しいものをはっきり自覚すべきであり、更にそれを拡げたい。現代より手にする花の種類も少なく、毎日の暮らしにも変化の乏しかった昔の人々は一つの花に対する思い入れは今こA日にらの私達より当然深い。身近に敵み、咲くのを待ち伶びていける花は微かな季節の兆しと結びつけられ、季節の風物、年中行事と重なりあって印象は益々強まって行私達は、日本という風土のお蔭で四季の楽しみを地球上で最も多彩に味わってきた。都市としての歴史が古いだけに、私の住む京都は、町にくり広げられる伝統的な祭礼、暮らしの折目をつける慣習的な行事、そして、夏のやりきれない蒸し暑き、気持のゆ入るような底冷えまでが文学や美術の助けをかりて、季節感を高め、私達の喜びゃ悲しみをより一層心にしみこませてくれる。私も多少哲学的な毘理屈をまじ、えて堂々といけ花論を展開したいのだが、生きていることの証は京都の風物を措ぉいて感じ得ないし、花をいけ続ける根拠も見当らない。街と共に満聞の桜の横で柳の緑が風に揺れてこそ春であり、初冬制時の町を北山陣献が通り過ぎる頃、水かす主ざ山やまは鉾二巡行のお供に加わってもきただ仙や案、菊をいけ、ぐじのさ酒カ蒸むしを造りたくなるのである。祇園祭は京都最大の年中行事であり、千年以上続いてきた。私の家も先祖代々祇園祭を見て過ごし、或はろ、っ。このお祭には京都の文化が凝集され、動く美術館と云われているが、浮妙山をくり出す町内に住み、祭礼の暮らしの中に組みこまれた生活の一部であり、京都の町衆の千年の暮らしが積み重なりの中に生きて、更に何程かのものを、その蓄積の中に加えることができればとさえ思っている。ふり返ってみると、私達は両親から、そして風土から与えられた遺産は計り知れないほど莫大なものである。だがその遺産の価値は、自分自身の感受性を磨き上げることによってしか手にすることはできない。何度も試行錯誤をくり返しながら、その真の価値を知り得たとき始めて私も次の世代に、代々の遺産の上に僅か乍ら、何程かのものをつけ加えて贈ることができるだろう。人生の四分の三以上を気楽に使い果たしてしまったが、それなりに得た価値も捨て難いものである。私に与えられた遺産は大分目減させてしまったようだが、残りの四分の一の人生で多少は埋め合わせておかなければならないようである。H7

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