5月号
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五月の山の花のことを書いていると釣に夢中だった頃を想い出す。行かなくなって二十年位になるが、渓流釣が専門で、あまごと宥魚(いわな)を追い廻していた。冬の間痩せ細っていたあまどが喰気を出し、活動し始める頃は山の木の芽も若葉に生長して行く。切り立った崖の下の谷川から見上げる若葉と空の色は未だに心にしみついている。根雪が少しずっとけて流れる崖には色んな花が咲き、当時はその名も知らなかったが、知らなくても美しいものは忘れられない。時々狼の群が二t一二十米上の樹の梢を渡って行くが、自分達の領分であるととをボすつもりなのか一しきり暗いて、木の枝を投げたりする。まだ随分大きな天然のあまどのいた時代で八寸から一尺近いのを釣っていたが、それより小さいのは逃がしてやることに仲間うちで決めていた。私も好きな事が出来るとのめりこむ方で、土曜日になると何にも手につかず、午後からは釣の用意にかかりきっていた。あまど釣りというのは道具のよくいたむ釣で前の過に折った竿の修繕をとりに行き、糸や鈎を何組も作り、餌を集めて翌る日一日の食料も用意しなければならない。それに行先の山の渓科の地図も必要で、仲間同志地図で自分の入る渓や落合う場所や時間をきめる。そして土曜日の夜、北陸や中部地方の山の渓谷へ夜行列車で出かける。大体四時頃目的地に近い駅につき一時間ぐらい歩いて目指した渓に入る頃山の中が明るくなってくる。二、一二人ずつに分かれ、それぞれの選んだ支流を遡りつつ釣り始めるが昼迄に大体十粁から十二粁は歩いてしまう。昼には飯金で飯を炊き、谷川が持参のビールを冷やし、釣り上げたあまどの大きいのを焼いて食べるのだが、一尺近いのを五、六円平げた上に飯金も皆空っぽになってしまう。その頃の釣仲間に今でもよく会っているが、魚が最近では小さくなったので皆やめてしまったようである。その頃は今のような、グラス竿ではなく、もっと賛沢な漆塗の継竿で、三間で十三本継位のを使っていた。自分の好みで段巻に塗り分けたものや、ベた塗りに一色で仕上げたり、色も黒、緑、糸、たまには白漆を塗らしたこともあった。賛沢な話だが、あまど竿というのはそういうものだったのである。一本が月給以上の値段でも何とか手に入れ、本数をふやして行くのに無上の楽しみを感じていた。五月の渓谷あまご釣に夢中だった頃vつ。私があまど釣に夢中になったのは偶然のととなのである。仕事の上で知り合った人にお義理でつき合って上げたととろ、その人があまど釣の大名人で、言われる通りにすると必ず釣れたのが病みつきになった原因である。さそわれて二度目の時、行きの列車の中で大阪の釣クラブのベテラン達と一緒になったことがあった。目的地は同じ九頭竜川の奥なので地図で入る川筋を相手にえらんでもらって分けあい、帰りに落ち合って数をくらべ合ったところ、私の先生が八寸以上のが百八匹、かけ出しの私が三十六匹。相手は五人で十五匹。乙の数は今でもはっきり覚えている。良い先生に山川辺ったものである。それからは毎週ついてまわったが、いつの間にかその先生の身のこなしゃ細かいととも意識せずにうつってくる。その先生とは一緒によく飲み、よく話し、気も合ったが物を覚える、習うというととはそんなものではないかと思う。何かに熱中させ、その素晴らしきを味わわせてくれるのが先生の有難きである。五月の山奥の渓谷で川魚のぷ王と言われるあまど釣りの超俗的な美しさを知ったということも私の大切な体験の一つだったように思五月の山、といっても私の知っているのは渓谷だけだが何時までも忘れられない緑である。3

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