5月号
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四月に京都大丸で「華道京展」が催された。華道京展は京都華道界の年中行事として毎年春ひらかれるのだが、私は写真のような「松の立花」を出品した。落葉松とめまつの二種で大体を作り、みずぎわに紫のテッセンをつけた色彩の美しい立花であった。昨年10月、大阪朝日会館ビルで聞催した「桑原専炭流大阪展」の際に富士高原地帯で採集した樹木のうちに、古さびた落葉松があったが、冬枯れた褐色の老幹の太いものを会後、家の裏挺にある水柏にほうりこんでおいたところ、なにしろふとい幹のことであるから生命力も強く、二月になると枯れたような樹閾の枝から緑色の若芽を吹き出し、ちょうど華道京展の四月に見ごろの材料となった。立花は技術の花である。植物の材料にいけばなの技術を加えて、それが立花ということになるのだが、生花よりも瓶花よりも、ずっと飛びはなれて技術的なのは立花である。自然の事物に加工して、別のものに仕上げるのが技術であるが、立花というのはどのいけばなよりも粕密な技巧をつくして、整然とした美しい形をととのえるいけばなである。古典的な花であるが、それを作り上げる追すじには、植物芸術の必要な技術がいっばいつまっている。そして、その伝統的な技術は、今日の新しい花にもことごとく応用できるもので、それは作る人の考え方によって、視代のモダンアートにも充分役立つ技法でもある。あらゆる芸術を完成するには、立派な技術が必要なことはいうまでもない。もちろん基礎となる考案創作が必要だけれど、それを作品とするには俣れた技術が必要となる。立花の考案は、今日の新しいいけばな作品の場合と少しも変わるものではない。もし、立花が古い形式の花で、今日の花は今日の花と別に考えることは、詮じつめていえば、古い形式の作品も新しいいけばなも、二つともよい作品を作ることの出来ない人だといえる。もちろん、立花のような形式的な技術には専門的な知識がいる。しかし、それをよく作り得る人は、新しい現代花も優れて作れる人であるに迩いない。一方はよいが一方は悪いし好きでないというのは、その作家の人間完成が出来てない、ともいえるし、その人の好きずきというか、好みによって一方を見向きしない狭量ともいえるのではなかろうか。以上の私の話は花道に責任をもついわゆる作家に対していう言葉である。願わくば日本のいけばなの基礎である立花が、今日の若い花道家逹の真面目な研究の対象となることを念願する次第である。もちろん、精密な技術をつくすことが花の芸術のすべてではない。清楚淡白な花の中に、立花のような技術の花の上に出るものもある。しかし、花の技術の最高のものといわれる技術を身につけて、その上で簡潔ないけばなを作る、そんな気持があれば一本の花でも整然とした自然の花を小さい花瓶に完全に活けることが出来るに迩いない。ピカソの芸術は写実の絵画の鍛練の上に創作が成り立っている。毛筆の一の字を格調高く書くには永年にわたる書道の勉強が必要である。いけばなの立体的な空問を美しく作るためには、そのいけばなの実体が美しくなければならない。これは基礎の問題である。... 12 技術専渓

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