4月号
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三者三一}】∞「(第−−−M刊郵州出物ぷ可1985年日川お日)品点以山ザ度流いけばなテキスト抑制む2010年1川l日発行(毎月l川lH先行)桑原点底流家必発行仙驚彩歳「どんなこと与えながら花をいけてるの?」「完成させること!」これはアメリカからケンチャンの中学校に交流にやってきた中学生に生花をいけて見せたときの質削とケンチャンの返事である。この等えは質問に対する的を射た答えであったかどうかは知らない。だが私にはいい答えのように問中える。実際に花をいけはじめたら、それは完成させなければならないのは当たり前のことである。その彼が花をいけている、その時にはその前の時歪があり、いけ終わったらその次の時空が控えている。今迄に見たこと、聞いたこと、読んだもの。中には深く心にぬみこんでいることや、それほども感じていなかったこと、様々なものが心として向分の中に積み重なっている。花をいけはじめる前からそんな雑多なものを背負っているのである。そしていける前には、いける花を選ばなくてはならない。だから、その花がどんな化なのか、いつの季節にどんな場所で咲くのか、形をつける上で折れやすい花なら、そっと曲げなければならないし、水を下げやすい花は手早くいけたい。だが、いけはじめたら無心になってしまう。時々、これはちょっとおかしいなと考えて手直しし、又無心広州「丸−−−九川に帰ってゆく。どんな風にいけょうかとか考えるのはいけはじめる前と、いけ終わってから押くしてからのことである。いけ終わった直後は、ああいけ上げた、完成したと感じるが、その一作を部屋に飾って凡つめ直すと欠点が日につきはじめる。一作いけ終わったらすぐに自分の完成度は、良くて加点であることを知る。完成度とは馬の鼻先にぶら下げられた人参のようなものである。だが人参につられて馬は確実に前進しているのである。いつか、何かの的fに人歩手−すこしだけ噛れるかもしれない考えてみれば、私達は一作いけ終えるたびに、腕より先に理想の方が先に進んでしまうのである。いくら完全な完成を求めても、その完成は馬の鼻先の人参なのである。それでも鼻先の人参にかぶりつこうとする心が大切なのである。人間とはそうい、?心を持つ牛ぎ物だと思、っ。だがらケンチャンも、これから先完成という人参差迫いかけてほしい〈ロ頁の花〉淡いピンクと濃いピンクのネリネ。簡単なとり合わせだが好みの盛花。化材、不リネ二色玉羊前花器赤絵水盤\。、仙粛コ一

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