4月号
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すさまぼたん揚し(ゃ〈揚や〈州・上海と南京の聞の都市)シ」回忌つ。「天地の聞には元来隙聞があり』、これはょ宋うL時?ヲ代しゃのくや、くお王ふうか観んという人の書いた「揚州持薬譜」の一節である。天地という語は、大自然の営みと云うことだが、それは広大で神秘であり、人の力では隙をついて操ることはできない。ただ聖人だけがそれを動かすことができる。そしてその働きで人々を教化できるのである。当時まだ中国には現代のよ、つな科学者はいなかったようである。だが、私はこういう物の考え方、受けとり方が好きなのである。続いて王観は、「今日、洛陽の牡丹や維の均薬は、もともと天地の気を、つけて生じたものであるが、花の大小、色の濃淡は人聞が天地のすき間をくぐり抜け、性質を変化させたものである」。ということは、の表情を多少変化させてみるいこたずとらができるかもしれないかという悪戯のような性質の行為ではないだろうかそこには西欧的な向扶鉱u学としての理論や実証性はないが、自然と遊ぶような大らかさがある。それを現代のバイオテクノロジーから見れば、物好きな素人の手探り、手造りのホビーだったと云えるかもしれない。そして宋時代の中国人は人工交配ということは念頭になかったそうである。(中尾佐助栽培植物の歴名た前。そはの「一吹ふ例占上あがげ雀す左ず牡め端丹ぼのた」ん朝。顔青図色で縞あ模る様。天然の植物史)。江戸時代の日本の花井園芸は、その頃の世界各国の園芸技術から群を抜いて発達していたそうだが、やはり人工交配による変種作りは行われていないで、自然変異種を何世代も気長に育てて、今では考えられないほどの珍種を作り上げていで、メンデルの遺伝の法則の発見(一八六六年)以前に法則や理論抜きで、こんな変わった朝顔を作り出して喜んでいたのである。勘と経験だけの名人技の花作りの江戸時代だった。正に、天地の隙間に手を突っこんで、変わり種を拾い上げてくるようなことである。そう考えると現代科学は天地(自然)の境をこじあけるようなやり方かもしれない。私の若い頃読んだ内藤湖南という東洋文化史の先生(京大教授)が、たしか、清朝末期以前の中国文化を「成熟した文化」と書いておられたが、花井園芸文化も、宋時代(十世紀j十三世紀)にはすでに円熟していたのである。いけばなも、そのような円熟した東洋的な文化を基盤にして、育ってきた。仙粛彩歳仙3 粛

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