4月号
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じゅうりつ「いけばな」という言葉を辞書でしらべてみる。広辞苑によると、華道又は花追、樹枝草花などを切つて花器に括し、人工を加えてその風姿を添える技術、いけばな。とある。これでは充分ではないが、まずその大要を説明している。さて、いけばなは伝統芸術だと言われることが多い。能狂言、茶道、自由律のいけばな花道.文楽、雅楽などと一緒に考えられ、知識的な人達の間でもいけばなは伝統芸術と、簡単にその一群の中に押し込められる。特に反挽するほどのことでもないので黙認しているのだが、心中甚だ悶やかではない。伝統芸術という言葉の中には、その伝統の技術と歴史性を昨敬される意味も充分加わっているのだが、今日のいけばなを、あまり真而目に考えない人達の便宜お手軽な扱い方だと息うので、今日のいけばなのその性格を少し述べさせてもらう。一ばんわかりやすい例を挙げてみると、例えば現在の日本画は伝統芸術か、と反問してみると、これは誰もがその歴史性は認めるが、今日の11本画そのものを伝統芸術だと考えるものは、まずあるまいと思う°伝統芸術とは古来の系統をうけ伝えた芸術で、伝統を尊重しそれを燐守する保守的傾向の性格をもつもので、今日のいけばなには勿論その一面はあるが、全面的にいけばなそのものを「伝統芸術」だときめつけてしまうのは、全く、認識不足であるといいたい。花器花道は600年の歴史をもつており、その意味においては正に伝統芸術だが、これは今nのいけばなの一部分である「立花」「生花」をさして言う場合は正しいのだが、それ以外の現在のいけばなといわれる「瓶花」「盛花」に対しては妥当ではないし、例えば、モンステラにデンドロビュームの盛花も伝統芸術かと考えてみると、失笑を禁じ得ない。つまり、今日のいけばなは伝統の形式も行なわれているが、その九〇。ハーセントまでは新しい様式の現代芸術としての粘神と、手法をもつているものといえる。この点、現代のやきしめの鉢。広口の器にたつぷりと入れたこの盛花日本画と殆んど同じといつて誤りはない。古い歴史性があるから伝統芸術だと一概にきめつけるのは、今日のいけばなに理解のない人達の考え方だと思う。むしろ反対に、今日のいけばなほど自由な行動をもつているものは少ないと思うほどである。むしろその自由さによって起る無軌道な作品の増していることに、婢悪を感じる場合がかなり多いのだが、形式的にしばられる様なことは殆んど少ない。ただ、その中にどんな場合も、作品の中に美しさ新しさを求めることは当然である。いけばなは古い歴史をもつているのだが、その時代その時代の生活に調和する様に変つて来た。ことに、いけばなが時代のうつり変りによって、どうしても変らねばならぬことは、私達の住居の変化と、いけばなに用いる花の材料の変化と言うことがある。私達の生活が変つて来るにつけ、住屈を飾るいけばなも変らざるを得ないし、材料に用いる花が年ごとに新しく変つて行く今Hでは、嫌でもいけばなそのものが変化して行くのは当然である。例えば「いけばなと季節」という問起を一っとりあげてもわかる様に、冬の実つきもの、右の花木、夏の草花、秋の紅棠という様に、四季の花をそれぞれ自然に定った季節に活けるという考え方は、すでに辿い背のこととなつて、二月の雪の中に大輪の菊を活け、12月に初以の百合を活けるという、実に自由な視実的ないけばなでは、季節の拘束もなく、また、4月の杜若や6月の山百合、冬の水仙、つばきの様にその季節しか咲かないものは、それもよしと自由縦横に使いこなす融通性は、いけばなが伝統という形式的なことからはるかに越えて、「自然と生活」に調和させて、変身して行くところにその本質があるからである。これは形式主義の茶道や、俳旬の季感季語、五、七、五調の定型律などとは異つて、今日のいけばなは、はるかに現代主義の思想をもつている全く「目由律」のいけばなといえ8 る。(専渓)デンドロビューム.ノビデアカシャやきしめ鉢淡紫色の洋蘭とアカ、ンヤの盛花である。花器は褐色のは股かな感じがする。洋室のゆつたりとした棚に飾ると調和がよいだろう。

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