4月号
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文人花という言葉がある。また文人生(ぶんじんいけ)とも言われているが、これについて少しお話をして見よう。これは瓶花の中の―つの形式であつて、その言葉があらわしている様に、余程古い、むしろ古典的といつてもよいほど古さびた好みのいけばなであって、今日の新しい瓶花の考え方の、も一っ前に流行した投入花の形式ともいえる。今ではあまり用いられないが、文人だとか、文人画などといった言葉が盛んに使われた時代治)があったが、文人とは詩文、書画などにたずさわる、いわゆる文雅に従事する人達のことをいい、文人画とはこれらの文人が余技に描いた画で、主として古い南画的な水坐淡彩の画風が多い。この様にすでに過去に流行した芸術、趣味の―つの形式であって、こんな文人風といった好みが流行した頃に、いけばなの中にも、その考え方がとり入れられて、一応、流行したのが「文人花」である。今日の瓶花と対比して、すでに昔のいけばなであつて、文人花などと(主として明、。,U` 孵をうけていることは蔽うべくもないう言葉さえも、色あせた感じがするのだが、また、ふりかえつてみると、雅致脱俗の風部を好んだ文人花の考え方も、花道の歴史の中の一っの形式として研究するのも無駄ではないと思っ。江戸時代から明治時代へかけて、盛んに行なわれたいけばなは、「立花」「生花」の技巧的な花に対して、草木を目然風に括した「なげいれ」であった。この「なげいれ」の中には、茶室に活ける茶花としての投入花と、別にこの「文人生」の方法が流行したのである。流行という言葉は適当でないかも知れないが、とにかく、その頃の新しいものとして花道の中の―つの時代をつくり上げたのだった。中国の南画の面白さを生花にとり入れて、文人生というものを考えついたわけだが、これは、その以前の江戸初期に狩野派の画風を花道にとり入れて、流麗な花形と技法を完成した「立花」も同じではないかと考えられるし、昭和20年以後、花道界に前衛作品があらわれる様になったのは、戦後に流行した前衛美術の影蕪村、梅逸、竹田その他、明治の文人画家のつくりあげた、文人画はいけばなにも深い影孵をもたらし、文人画の面白さを生花にあらわそうと考えたのが、文人生のなりたちであろう。文人画と煎茶の関係も深いものだが、いずれも中国から伝った趣味が絵画詩文となり、また、花道茶道などに影聰をもたらしたものと思う。雨月物語の上田秋成や南画の田能村竹田なども、この文人生の花を好愛して煎茶や瓶花に関する著書をつくつており、この頃の文筆画家の間に好まれたのが、この文人生であり、また文人生という言葉もその辺からの造語でないかと考えられる。現在の花道の中に「文人生」という言葉は殆んど使われていない。ある流派では「文人生」という一部門を設けて、その様な感じの瓶花が活けられているが、これも古い花道を勉強する意味において、残された部門でないかと思う。さて、文人生というのはどんなものだろう。これについて明治大正の有名な花逆家、西川一草亭の著書「日本の生花」の説を引用して見よう。「文人生は従来の日本の生花の伝統から全然かけ離れたもので、いわば一種の素人生であり、自由画の様なものであるが、その素人の粗雑な生花に、却つて伝統にとらわれない自由さがあり、在来のものに見られない清新さがあった」「竹田の瓶花論に次いで細川潤次郎という学者が「枯花微笑」という著書を公にした。それでも一般によく知られず、殊に在来の生花をたしなむものは殆んどそれを顧みなかつたのであるが、最近二十年ほどの間に、急にそれを認める様になり、天地人の生花に代つて、これが日本の代表的な生花の様に考えられる様になった。そうしていつに間にかこれを投入と呼ぶ様になった。」この本は昭和16年発行のものだが、生花全盛の明治後半から、瓶花盛花時代へうつろうとする頃に、文人生の自由ないけばなの考え方について、その一端を説明していると思う。以上の様に文人生はその頃に新しく起りはじめたいけばなではあるが、その中心となる考え方は法則が一切ない。自然の技振りに応じて自由に花を括す。中国南画の思想を多分にとり入れ、古雅な風韻を喜び、花器など中国風の壷、銅器、篭などを好む。いけばなの技巧を加えず、活け方は自由らいらくではあるが、日本のいけばなの伝統、形式は一切みとめない。壷に投入れする簡単な方法によつて、原始的な投入花をつくる。老松、木蓮、老梅の様な材料の中に、曲折の多い枝振Cと奇趣を好み、強い蒼古な雅趣を好む。軽い草花のやさしいいけばな、明るい洋花の美しさなど、とは全然別の、古風な材料と古雅な花器によって作る投入花。花形は横斜した花型と懸涯の形が多い。以上、充分な説明ではないが、要するに「文人」という言葉のあらわす様に、古風な豪快さを楽しむ趣味といえる。この文人花が、なぜその頃に流行したかというと、その頃まで隆盛であった生花の技巧的な型の(その悪い意味の)いけばなに対して自由であること、簡単に挿せることが魅力となったものであろう。しかし明治、大正の新しい文人花が今日においては、すでに過去の古いいけばなであることはいうまでもなく、ふり返つてみれば、文人生とか文人花とか、そんな形式のあること自体、その本質を失ったものというべきで、すでに文人花の意義を失ったものといえる。ただ明治、大正の知識人に多くの支持者のあったことは注目すべきことで、知識人の好んだ花という所に特徴がある。時代はすでにうつり変り、この文人花の流行った頃と、今日の瓶花とを比較してみると、すべての点において、全く隔世の進歩をしていると思う。文人花という、古い投入花をふり返つてみて、自由であるというだけで、芸術ではないその考え方は、花道の外にある散歩道路の様に思えるのである。(専渓)7 6574321文克人t→ +-ばィヒな

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