4月号
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「物事のとらえ方」初心にとよく云われますが、をやろうとすることは非常に難しい事です。時間は経過し、次々と新しい出来事が起きて仔くのに、過去の記怪を踊ごととり戻すというのは、成長に逆らう様な気がしてもどかしい感じがします。しかし学校や会社では春になると必らずといっていい程、この訓辞が謡われます。これは、どういう事なのかと私なりに考えてみました。物事が始まる時というのは、大抵誰もが謙虚な姿勢でいるから良いというのは分かる様な気がしますが、そこからプロセスを経て、前よりも色んな事を学んできた自分が出来ると、謙虚でなくなるという事よりも倣慢な自分を出さない様にもっと前へ進む事の方が先決だと思います。勿論、誰もがその努力を怠らない様にしていると思うのですが、その人の態度というのは、本人と、見る側によって色んな相違があり、それによって、又色んな悲劇や喜劇が生まれる事は明らかでしょう。例えば、ある人聞が謙虚な態度でいたとします。それがある人には好印象を与え、しかしある人にはただの独り善がりに見えて不快だったり又、ある人間が倣慢な態度でいるのを見て、その態度が嫌味に映ったり、或は、本音で物事を表現していると捉えられたり。とにかく、ある一人の人聞の行動や言動は、人によってそれを見聞きした人の数だけ異なった感じ方があるのです。そんな事を考えているうちに、最「返る」とか「戻って」等一言葉通りの事桑原はな近私がこれは、と思う様になった事は自己表現と忍耐のバランスについての問題です。個人の問題には個人に責任があるだけにとても難しいテーマでもあるのですが、人と人が関わりを持っている社会で皆が幸せに暮していこうとすると、この二−つのバランスはとても重要になってくるし、逆に自己表現をするにも忍耐をしようにも自分以外の人の助けが必要になるのです。そしてこの二つのバランスがとれる様に多少の矛盾を感じていても、人に優しさを持てる様になると理想的なのですが、広くて深い愛情を自分にも人にも与えられるというのはとても容易な事ではありません。私は本当に失敗の多い人間ですがこの頃、その失敗から何か学べる事はないかと模索しています。失敗を恐がったり、忘れようとしたりすると、今度はもしかするともっと大きくて困難な失敗をしてしまうかもしれないし、その時に逃げられない事を急に背負うと、きっと危ないと思います。そういう風に考えると失敗は自分の宝なのだと思う様になりました。かといって失敗を自ら望むのではなく、仕方なく待ち受けていた様々な物事をよく噛んで食べれば、やがて血となり、肉となるという事なのですね。要するに初心に戻れという事は、無理に緊張感を張りつめきせたりしろという事ではなくて、失敗をした時にそこから何か学べる様に常に素直でいた方が良いという事だと思います。なんだか春の始業式に校長様がおっしゃられるお言葉の様ですが:・。9

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