3月号
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□、篭などをみてあるくことで③こんどはこの茶碗を五個重ねてみた。まるい手が五つならんだ形は美しいし装飾的である。カーネーションの花六本。淡紅、赤、紅白混色のものを交えて活けてみた。容器が黒いので花の色がはっカーネーションきりと見えて美しい。普通の花器にない新鮮な感じの花である。コーヒー茶碗に花を活けることなど、あまり例が少ないけれど、こんなものを花器に利用するのも面白いものではありませんか。花器ときまったものでない容器がいろいろあるものです。こんな器物の中からさがし出して、花器に使ってみるのも而白いし、それによって明るく新しい感じを作りだすことが出米れば、さらに楽しいものである。私は外出するたびに、町をあるきながら陶器の店や古美術を売る店、民芸品という雑具の店、百貨店の輸入道具類などをみて、その中から花器に使える面白いものはないかと注意をしている。気にいったものがあると、すぐ買うことにしているのだが、旅行に出てもいちばんの楽しみは、その地方の郷土色のある陶器や本~具ある。京都の町条清水など、いろいろの陶器を売る店があり、作家と称するお宅などを訪問して、花器になるようなものを物色するわけだが、数多くの陶器を見、ju向いクラスの作品をみるたびに考えるのは、陶芸家というものは、陶器の焼成の土での技術については、あらゆる研究と追求をして立派な作品が出来Jっているが、壷の形(ほとんど壷形の陶器である)については、案外、無関心な作品が多い。美術作品といわれるものは大家のものが多い関係土、なおさら穏健な形のものか多く、まれに創作的な形の壷をみることがあるが、それもほとんど少ない。焼成の技術や釉薬についてあれほどの努力を重ねながら、その形については意外なほど平凡である。尤い鞠芸家の集団に00社というのがあって、この同人は創造的な形を作ることで有名だが、この派の人逹は自由な造形をめざすあまり、こんどは陶器の本質から抜け出たような作品となり、むしろ彫刻の分野に入っている様に思つのである。私逹花道家は花器としていちばん多く使うのは陶器である。て私逹の陶器に望みたいのは、新しい形の花器を作って欲しいことである。いけばな陶器の市門店というのがある。そこへ行くと多くの花瓶にまじって、変形の花界を売そこれはまた極端にいやらしい悲趣味のものが多く以池な感じのもので品格に乏しい。私達の望むものは、内容の高い創作的な形の陶器で、ペルシャ瓶やトルコ陶器の古色斉然とした、あんなものを望むのではない。現代感覚に辿じる新しい形、しかもそれは品位の高い陶器。そんなものが欲しいのである。私逹の今日の仕江にはこんな慇じのが望ましいのであるし花恭は料恨的に使うけれど、新しい時代には新しいいけばなの花器が必製であると息うのである。もちろん、壷であろうと広化瓶、水稲の類のいずれにしても、新しい考玄太の創作陶器が欲しいのである。陶芸としての技術練磨の中には、形の創作ということも市製な課姐であると山心うのだが、今日の陶改家はそれを忘れているのだろうか。私は常に不渦に思っているのである。(専決)したがっってい古い壷形の7 @ R

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