3月号
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(写真A、B、C、小西進)にはずかしくない美しい自動車道路である。それでも自転車に荷物をいっぱい積んでいるのは、背ながらの飛脚であろう。武生や鱚江などへ通うのであろうが、北陸海岸の道の古い恰紹が成心じられる。その道は豪快な巌石の岬の突端を買いて、いくつもの隧道を抜けてゆくのだが、やがて「黒崎隧道」を通り抜けて「師」ぬかー「米の湘」の海岸の部落に入る。この辺は海沿いの逆に吹きつけられたようなわびしい集落だが、岩礁の梅岸にへばりつくようにならんでいる街道筋の家は、背高い矛(かや)の雪囲いを作って、出入口だけ三八に六尺の一j口をあけてあるのも雪固らしい風景である。山は強い海風に音を立てて雑木林が横なぎにゆれ動いていた。写真にある「越前岬」から少し行くと、私達の今日の訪問先「越廼」こしのーーの村が入江をへだてて向うに見える。水仙の木場はこの越廼を中心に海岸ぞいに8キロほどの丘に咲くのだが、このあたりの越前岬は日本悔の暖流が悔岸を流れているので冬も暖かく、低い丘に水仙の咲く特殊な地帯になつているのである。午前八時に六角の桑原宅を出発した。私と隆古索子、竹中、今井、藤林の熱心な同好者、それに三オの女児「はな」が、いつしよに乗っかつて総努七人である。二台の車が悔風に白く吹き荒れた板墜の家の並んでいる漁村、下岬村に祈いたのは午後一時ごろであった。水上勉氏の「火の笛」に描かれている、梅の袖、玉川、きたことになるのだが、この小説にある村の娘逹が水仙を切り集めて、敦加具や武生の町へ売りに行く描写は、ちょうどここに掲城した写真「水仙をかれい崎、河野などの海岸の村落を通つて.I2 を111心いおこすのだった。連ぶ女」ー(小西進氏写真)がそのままの梢景だと息われる。芦の枯れ穂のある悔岸の道を行く二人の女、索朴な梱村の冬ざれの最色である。「げにや君の仕む越のしらやま知らねども」という古い歌の言漿を思い出したのだが、恐らくはかれい騎の奥、ふハ呂師から白山村にかけてのことではないかと、この土地にきて新らしくその情紹さて、黒崎海岸の街道ぞいにある下訓村に「越廼牒業協同糾合」の事務所を訪問した。咋年の10月ごろから越油岬に行きたいと、いくたびも心に描いていたのだが、初花のころも過ぎてやがて12月に入り、それも機会をはずして漸く一月二十三日の今日、水仙の咲く越伯岬にくることができた。越前岬は私にとつてはじめての土地だったが、かねての想像を越えた美しいところだった。日本梅の波涛の打ちよせる寒むざむとした樵村を想像したのだったが、事実は明るい光りと広茫とした日本海を前にして、新しい迎路が近代的な設仙をととのえて、雄大な自然の風景とよく調和して、これからのてゆく垢所に迩いないと息うのである。それでも三十_Jないし五士戸の部落が街道にそうてならび、道の上になったり下になったりして瓦犀根をみせている。冬のうちは活動をとめているような部落にみえるのだが、人帖は本朴で話しかける人逹に暖かみを覚えるような土地である。現在は旅館も少なく、夏には民宿というのがあるそうだが、やがて観光の脚光を浴びて何とかホテルというようなものが出米るに辿いない。まだ今日では原石のままのエメラルドのような希箪のある越前洵岸であると思った。どうぞこの刊然の美しさがいつまでも保存されることを祈りたい。n然公園として大きくのびし

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