3月号
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cューカリとラッパスイセンの瓶花である。ューカリ樹は形も色も中々よいものだが、悪呆がある。お食事の場所など考えねばならない材料だと思う。垂れた枝ぶりに変化があり、どの花にもよく調和するが、ことに洋花と合せてしつくりとする材料である。最近、これが花屋に出廻つてから、アカシャのかわりをする様になったが、よく似た材料のアカシャの。ハスイセンは自然の組めたまま使方が好ましい。この花器は褐色のにぶい光沢をもった変った形の花器で、洋花にはよく調和する。花型は左右にひろがった均斉体でユーカリ樹やアカシャを活ける場合に、こんな花型がよいと思う。ラッい、竹を横さしにして丁字留とする。花の向きに変化を考えて挿す。ューカリの枝に長短をつけ、傾斜や空間にも変化をつける。c 第2国道をしばらく走ると芦屋川で名神高速道路を西の宮でおりて、ある。川沿いに1キロほど行くと、有馬への道と二つにわかれ、椅を渡ると有名な芦屋の別荘地帯に入る。この辺からなだらかな丘陵がつづいているのだが、まもなくそれを抜けると見晴らしのよい丘の上に立つことができる。尼が崎から神戸の港まで半円型にひろがった悔が足もとに見えて、実にひろびろとしたよい眺めである。戦争が20年の8月に終つて間もなく、それは10月のはじめだったと思うが、小原流の農雲先生が六角の私の家へ突然と見えたことがあった。お互いの無事を滋こびながら、これから再びいけばなの復興に努力しましよう、ということになつて、早速、その復活の第一回展を京都大丸で開催することになった。とにかく芦屋の家へも来て下さいとのお話で、数日をおいて御影の小原さんのお宅をお訪ねした。小原さんも中山文甫さんも、芦屋御影と殆んど近いお住居え・桜チ木[焔豆火か。tこ 幸いにも小原さんのお宅も、中山なので、丁度そのとき久し振りに中山さんにもお会いして、一紀に戦後の第一回展を催す相談ができ上つさんのお宅も戦災をまぬがれ、一〇0メーター近くの町まで、爆弾と焼夷弾であとかたもなく焼け落ちた屋敷あとの近くに、無事なお宅の様子を見て、ほつとした息いであった。その頃はまだ「いけばな」どころではなく、心斎橋あたりも軒なみに仝部、黒々と焼け落ちて所どころ奸つている状態であったので、勿論、花展をひらくという、そんなふんい気にはまだまだなっておらないのだった。とに角、京都大丸で11月に「三芸脳」という名称で、小原、中山、桑原の花、宇野三吾の陶器、井土覚三の汗画とを合せて、展翌会をひらくことに決つておったのだから、この日、小原さん中山さんと私と3人が芦屋川をさかのほつて、少し山を入りこんだところまで、材料を見つけだしに行った。一寸したハイキングなのだが、さて山に入ってみると、実に驚いたことは見渡す限り、六甲のあたりから芦屋、神戸の山に至るまで、まつ黒に焼けただれて、その中に幾千幾万の焼夷弾の弾筒が黒い地面につきさされて、目の及ぶ限りの斜而の中につつ立つている。ほどの、丁度、洋傘の箱の様な形の弾筒が、まるで乱塔姿の様につつ立つている状景は、およそ想像を越えた凄いものであった。戦争なれのした私達は、それほどの感動もなく、その焼地の中からまつ黒に焼けた焼けぼくの形の面白そうなものを見つけ出したり、30センチ程度の弾筒のふたの様なものを集めて、これも花器に使えるだろうなどと、その巾の奇蹟にも残った松の緑の枝ぶりの面白そうなのを集めたりして、私逹の断絶したいけばなへの意欲をとり戻すには、あまり時間がかからなかった。荒廃した戦後のオアシスの様に、私逹の展魏会は大変評判がよく、ひきつづいて大阪大丸でも閲催して欲しいとの大丸側の希望によって、翌年の1月に「三芸展」の第2回展を、心斎栢の店でひらいた。メンバーは同じであって、その花展には私も六、七点出品したが、水仙の立花を出品して好評を得たことを覚えている。大阪駅から心斎栢まで、まだ電車は通じておらず、目動車その他の交通機関は一切なく、梅田から心斎栢までかなりの道のりを、会期中、毎日歩いて行ったのだが、大阪駅で買った1個5円の味つけなしの黒パンをかじりながら歩いたことも、今はなつかしい恢い出となった。10センチ四角に、長さ一メーター.. (専渓)5

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