2月号
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専渓豊橋で下車したのは午後3時に近かった。伊良湖行きのバスはアスファルトの珀を一時間あまり、町から村をいくつか通りぬけて、ようやく海岸地帯にたどりついた。12月はじめの伊良湖岬はさむざむとした砂浜と低い丘がどこまでもっづいて、はじめての土地にひとり旅をする私には一層わびしい感じだった。きのうの夜、急に思いたつて案fこ。 この小松が原は百メーターほど利内害の中から適当にえらんで電話で申込んでおいた旅館の前ヘバスが桁いたのは、4時をまわっていただろう。海岸の砂浜に殺風景なコンクリート造りの三階建ての農鉄ホテルの扉を押したときは、病院か療掟所といった感じをうけたものだった。ほとんど樹木のない海岸にぽつんと―つだけの淋しいホテルだった。三丁ほどの向うに「伊良湖国民ホステル」というのがあって、反対側の可丁ばかり離れたところに伊良湖の船若場がある。そのほかは白い砂浜と近くのなだらかな丘に緑の小松原があるのが、せめてもの慰めであっうの自動車道路から、なだらかな丘の上まで低く左右にニキロほどもあるだろう距離を、めじのとどくまでひろがつており、ちょうど庭のつつじの柏込みのように頭を揃えてぎつしりと押しつまつて生えている。野生の松だが腰の高さまでない松が、幾万というほど群生しているのは、まことに珍らしい景色だった。松の原っぽである。おそらく「松原」とか「小松原」とかいう言菜は、こんな情景をさす言葉だろうと、はげしい拇の風に吹かれながら、人っ気のない白いアスファルトの氾に立ちながら、昔の言築の巧みさに感心したものだった。フロントから百メーターもある長い廊下の端が私の部屋だった。窓の下は伊良湖の海がひろがつて、足もとの砂浜は海水浴場の小屋が並んでおり、その向うに港の突堤があって小さい灯台が立つている。それでも半時間ことに蒲郡から志岸へ通うフェリーボートが眼の下の悔を横ぎつて港へ入って行く。それだけが動きのある風景だった。随分淋しいところへ来たものである。明日は午後に「和地」わぢーーの温奎村へ行き、菊の栽培地を見ることになつている。やがてまっ暗な夜に入って、川端康成の「雷I」をぷみながら比に人った。孜半、はげしい祷音に目ざめして、縁側のガラス戸に近よって夜の洵をながめた。窓ガラスが部犀の暖気にくもつている。指がしらで目のあたるところを拭つて外をみつめると、くらい海の中に灯台の光が短かい瞬間を繰り返して明滅している。亦い光は伊良湖の灯台、辿い海の向うで黄色く洸つているのは、対岸の知多半島の港であろう。それもあるかなしかのかすかな光で、やみの中にかすんでみえる。どうん、どうんと間尉的にはげしい音を立てているのは洵嗚りというのであろう。低い山にかこまれた京都に住む私は、知らないし、海の辿鳴りの音をきくi蒙快な山嗚りの音もtこ 渥。美の農村は暖かい阪ざしの1にことも珍らしい。海はかなり荒れているらしいが、明日の天気が気がかりである。朝、フロントヘ行ってきのうからの疑問をたずねてみた。「伊良湖岬というけれど、湖というのは何故でしようね」。フロント係の老人が恐縮していいました。「それをよくきかれますのですが、とにかくいい伝えによりますと、古い昔に知多半島とこの伊良湖岬とがくっついていて、その中にあったのが伊良湖というわけで、どうも相すみません)ということだった。11時ごろ、悔の刷う側の知多岬から写真の小西氏が若いた。さつそく車に乗って「和地」の温奎村へ出発した。ここから和地へ行くのには半島の中央部の「福江」まで行き、それから右へ道をとつて、太平汗岸へ出ることになる。30分ほどの距離だったが連転手がよく心得ていて、私達の行先「和地花井協同糾合」務所まで運んでくれた。幸にして、今日は天候もよく暖かい冬11和だっ静まりかえつていて、キャベツの畑と花の糾[牟がどこf:でもっつぃてぃる。洵からくる強い風も邪めいていて、すでに花を咲かせている菜の花の黄色が大きくゆれ動いていた。事務所は和地の村のまん中にあった。の事温室の村,和地から街道をへだててすぐ洵岸である。太平洋の水平線を見る砂浜には変化のある岩がならんで美しい。渥美半島の温室村,

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