2月号
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め字。。明治の中頃建てられた慶謄義塾大学の古い柔道場には塾生だった私の祖父の時代から父の代を経て私の頃までの部員の名札がかけられていた。ていたかというと、大変観念的で、そんな名札のかけられた道場で稽古するのは中々気分の良いもので、祖父や父の友人達から見れば孫や息子が同じ道場で自分達と同じよ、つに稽古に励んでいるのである。下の写真は、大津の当流師範小林慶正氏の奥きんの家に伝わる花札で手前の大きい方には側面に天保三年と記されている。今から一五九年前、西暦一八三三年に授与されたものだが、天保二年には九世家元が残しているので次代の十世専慶が家元を継承して問もない頃師範となられたのであろう。花札には岡本常つね治しろ良うと記されている。十世家元の時代は丁度幕末の世情騒然としており、とくに京都は勤皇佐幕という政争の渦中にあったので落ちついて花をいけてもいられなかったので一時江州(滋賀県)に居を移しておられたそつである。おそらく岡本常治良氏はその時代に入門なさったのだろう。上の小さい花札は次代の曾祖父岡本喜三郎氏のものだそうだから五代にわたって当流の花道を続けておられることに日本のいけ花がたどってきた歴史えるは仏教が伝来して供花がはじまり、平安朝の文学には清少納言が大きな榔に桜を挿して見つめる優雅な一節が出てくる。だがどの程度自然の諸相を自覚し鈴木大拙師が『日本的霊性』の中でヰー安文化は優雅ではあるが、霊性は大地を根として生きているのに大宮人は大地を知らない。彼等の大地は観念上のものでしかない、と云っておられるが、いけ花が花をいけるということの意味を自覚しはじめたのは鎌倉時代を過ぎて室町時代に入つて、大地に根ざした生活をする人々が花をいけるようになってからのことである。大地の辛酸と共に甘美さも知った人々が支配する世の中になってはじめて花道もその周囲の同朋衆によって基礎が作られた。そしてその輪がひろがるにつれ、ともすれば観念的になり勝ちな花道を健全な状態に引き戻したのは更にその輪の外の植物の自然を知りつくした庶民の目であった。いけ花が五OO年もの間生長し続けてきたのもそのお蔭である。いつの間にか私の書いていることも観念的になってきたが、古い花札を見ているうちに十世家元が江州に住んでいた頃、親しくつきあう村の人々にいけ花を教えながら反対に村の人々から与えられた知識が更に良いいけ花を作り出す原動力になったことであろう。何代にもわたって共に花をいけ、自然を語り合って暮らして行く集まりのまとめ役というのも家元の一つの仕事ではないのかと思う。伝10

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