1月号
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が、旦雇い稼ぎなら余るほどあるので、ぎりぎりながら衣食には困らなかった。そのあいだにも彼(正雪)は学問を忘れなかった。三河町の同じ長屋のひと棟に、石川主税助という浪人がいて、これが楠木流の兵学の講義をするときき、正雪は薪用の木つ端を謝礼にして、毎夜ずつとその講義をきいた。それから二年前、林羅山が京から招かれてきて、上野忍ぶ岡に邸を賜り、そこで塾をひらくと、邸内の草刈りに雇れて、講堂の縁下に身をひそめながらその講義をも聴いた。正雪ははやくから蒲原在の普門院で儒学の手ほどきを受けていたし、石川主税助が羅山を評して、あれはいか派の軽薄才子だ、低学の本統ではない。というのをきいて、なろほどと思っところがあったからである。羅山は藤原せいかの高弟であり後年聖坂学問所(聖堂)の学頭になった人であるが、古学を排して朱子を唱をるため、一部の学者からかなり非難されていた」林羅山は二十三オで家康の招きをうけ、二条城で家康と会見、その以後幕府に仕えることとなった。それ以来、幕府の学統は林家によって奉仕されることとなり、歴史に有名な学者がその系統から生れることとなった。湯島聖堂の一部に「昌平坂」というのがあった。昌平の名は孔子誕生... せ地の名をとつて名付けたもので、本来は坂の名ではなく、聖堂所在地を意味していたものらしい。しかし後年、ここに学問所が開設されて「昌平坂学問所」又は「昌平曇」ととなえられるようになった。さて、いけばなテキストの紙面をさいて、岡山の「閑谷螢」と東京の「湯島聖堂」の紹介文を書いた。この二つは江戸時代の学問所であつて現在は比較的知る人が少いと思う。機会を褐て訪問されることがあったならば、その建築の壮麗さと、重厚な歴史のあとをかえりみて感激されることと思っ゜私達はいけばなを通して芸術への迎解を深めることが大切であるし、また、日本の歴史とその史跡について考えろことも必要なことである。本号に「閑谷」と「湯島」の写真を集めるのにかなり努力したが、ごらんになつて何かのお役にたつことがあれば幸せだと思う。(専渓)(附記、12月7日夜)文筆にしろうとの私が思いつくままに雑文を書いているわけですが、なにかの御参考なにれば幸せと思います。来月号には「握美半島の園芸の本場を見る」というのを書いてみたいと、今日(一月号)の原稿を書き終えて、明朝の新幹線で豊橋のりかえ、花の栽培地に出かけます。写真の小西氏と同伴で行く予定です。石標入徳門聖堂① ③ ② ③ ... ①②~ 厖・霞...ヽー.轟..........-匹▲

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