1月号
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そのころ、構造の荘大さに端府が不審をいだき、あやうくとりこわされようとしたこともあって、一時学校は中絶されたという。藩内の優秀な子弟を集めて特別教育をほどこしたことに疑問をもたれたものであろう。国宝の講堂、習芸斎および学生控所、飲室、文庫、公門など、それぞれ璽要文化財に指定されている。なお、この学堂の建築に際して、すべての屋根瓦を附近に窯を造作して(約三万枚)を製作した。これが閑谷焼(しずたにやき)の窯のはじめといわれる。岡山県には名所旧跡が多いが、この閑谷校に及ぶものはないと思っ。京都宇治の平等院などと共に日本を代表する建造物である。私の知るところでは「螢」という字を使っていた、又は現在使っている学校は、岡山の-つ゜「閑谷盤」江戸時代の「湯島昌平和衷」それに現在もある熊本の「済済緊」の三つである。「螢」とは学問所の意であって、学校の「校」と同意の文字である。済済というのは、多くの又はおびただしくという意であって、「多士済済」などといつて、優れた子弟を生み出す学校という意味だと思う。閑谷学謡の屋根瓦について書いたが、その陶盤の色は渋味のある黄掲色に統一されており、まことに荘重な感じがする。倉敷の大原氏本邸の屋根瓦は中国製の陶盤で、これは落沼きのある緑色に黄色を交えた色調で、本邦の建築物の中でも珍らしいものだが、剥谷螢の建築は全体に中国的な形式が見られ、特に犀根瓦は備前窯の歴史を永久に残すものと思東京閑谷学堂の建設の寛文年問、そのころ江戸においては、将軍家網が上野湯島に湯島聖堂を建設して、孔子を中心とし、頻子、子息子、曽子、孟子の四人の高弟の座像を祭つて、ここを学問(朱子学)の本拠とした。しようへい(昌平(表門)こ_っ霙)fr「正雪記」の一節を掲載して参考湯島聖堂は現在も保存さていて、国屯お茶の水駅で下車、橋を渡つて東北へ二丁ばかりのところにある。(写真参照)私は東京へ行くとお茶の水に近い「山の上ホテル」に泊つて湯島聖堂を訪ずれ、歴史のあとをみることが幾たびもある。楊島聖棠は大衆的な名所ではないが、その歴史といい、その建造物といい、江戸時代の学問所としての威厳を伝えている史跡といえる。その頃の学問は、中国よりの儒学と、その反対側の朱子学との二派に分れていたようである。上野忍岡に道場をひらいた林羅山は、朱子学の学者として藤原門下の高弟であつて徳川家の信任が厚く、家光、家綱の保泄を得て、また尾張大納言徳川義直の知遇により、そのころ上野忍岡にあった林羅山(後に道春)邸に、「先聖殿」と称する孔子廟を建てたが、その後、綱吉の時代に至つて現在地の楊島に移転し、「大成殿」と改称し附犀建造物とともに湯島聖堂ということとなった。ここで余談になるが、山本周五郎にしてみよう。「そのころ江戸は殆ど城下町の規模を備えたが、むろんまだ完全なものではなく、至るところに土木建築の工事が行なわれていた。物資はすべて移入であるために物価は高かった湯島聖堂i ""'' (石塀)・・-----10 =--謳国

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