1月号
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チベy卜う寸もの袷ふれぜかひとら単衣、薄物から秋口には又とき広町川,beA,この間スペインのバスク地方の山村の三六五日を取材したテレビを見た。農業と羊を飼って暮らす静かな古い村だが、一年のうち秋から春までの七ヶ月間、男達は家を離れ何百キロも牧草地を求めて羊の飼育のために旅に出るのだそつである。牧草の尽きる冬、家族には淋しく、辛い旅を過ごす男達には苛酷な季節の巡ってくる七ヶ月である。だが男達は当然のこととして羊を追って旅に出、残った家族は温かく寄り添って冬を凌いでいる。四季追って追われてそしてピレネl山脈を仰ぐ村を心から愛し、村を捨てて移り住もうともせず美しい習俗を育てながら何百年も同じ生活を繰り返す。西蔵の遊牧民は定住もせず、バスクの村民よりずっと苛酷そうに見える草原を転々としながらもその四季の自然を驚くほど適確に知りつくし、私達から見れば計り知れない美しさの中でラマ教を心の拠所にして独自な文化を育て上げてきた。北ヨーロッパでは陰穆な永い冬が終ると人々の待ち受けていた明るく華やいだ春がやってくる。だがその春は日本のような真夏日を迎えることなく早々と秋が終ってしまう。十月初旬、「日本ではもっ協の季節ねL「そう、そして十月一日から学校でも制服が一斉に冬服に変るのよね。母が監骨の中の夏物を冬物に入れ替えしていたのを想い出すと、たまらなく日本が恋しくなるわね。こっちではそんな面倒なことする必要も習慣もないのね:::・:L、と西ドイツでいけ花のセミナーを手伝ってくれていた女性が話し合っていた。私達の春は桜の花が終ると晩春、爽やかな初夏から入梅、梅雨が明けて盛夏の猛暑に暗いでいるうちに、いつの間にかそよぎはじめる風に秋が歩み寄ってくる。小刻みに、そして肌砂細かく四季は移り過ぎて行く。ヨーロッパにあるのは冬と春だけなのかもしれない。その季節感の乏しさがヨーロッパに永住をきめた日本女性に故国への郷愁を喚び覚ませるのだろう。単衣に戻って袷へと折目正しく、しかも着物の柄まで季節に合わせる暮らしは日本人の、自然に対する細こまやかな目くばりの織り上げた一巻の絵巻物なのだろう。だが、豊かな彩りと展開する四季、暦の上の約束事に自分の着るものまで目紛しく変えて行かなければなら,刀ないという奇妙な生活を強いられることにもなった。そして日本の庶民は弥生時代から一貫して稲作を主軸に僅かな農産物と、たまにしか口にすることのない魚介類で生活してきた。農産物や水産物の収量は四季の巡り合わせによって、良い年もあればひどい年もある。その予測は難かしく、暦に従って作業日程を決めるよりも、永年見つめ続け、体験として伝えられた僅かにしか見えない自然の徴候を真剣に読みとって農作業を進め、漁期を占って来たのだろう。迂閲にその徴候を見逃したら食べ頃の野山の食糧や水辺の魚介は勿論、かけるようになった。農業の収穫さえ失なうことになってしまう。豊かな四季とは云え、それは懸命にとり残きれないよう追い続けなければ暮らしの立てられない風土でもある。私達が季ならぬ花に請しきを感じ、それをいけることに心の隅で跨践の念を抱くのも、永い間積み重ねられてきた日本の農民的な、生活を賭けた季節感の昨均ではないのだろう日本のいけ花の根底には、植物に対する農民の目が未だにしっかりと見開かれている。室町時代、初めていけ花としての第一歩を踏み出した立花は、将軍家の同朋衆によって創始されたが、その在様は絶、えず農民の自によって修正され続けて行く。立花は安土桃山時代を経て元禄時代に完成の域に達するが、丁度その頃から花井園芸が盛んになってくる。そしてそれまで上流階級の遊びでしかなかったいけ花も、皆弼してきた力強い町衆の教養として拡がって行く。又いけ花が下に向かって拡張を続けるに従って植物の生態の観察は深まり、観念的な自然美の札讃から植物そのものの現実の生き方に心を惹かれるようになって行った。日本のいけ花は、ただ美しい花を並べて飾るという遊び事に終らず、植物を介して何事かを見る人に問いそれは懸命に追い求め、捉まえなければ生きて行けぬ自然であり、捉まえてイ平和に見据えれば美しいが、うつろいやすく、捉え所の定まらぬ自然だったのである。カット淡紅椿小品生花花器白磁筒型花瓶え9

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