1月号
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私の机の前に一本の白いバラが花瓶にさされている。二、三且則に活けた花だが、今日はつほみが大きくふくらんで、緑を帯びた白い花弁がだんだんとひろがって、あすは大輪の花を咲かせるだろう。活けたとき少し傾いていた葉も形よく水揚げて活々とした姿をみせている。切りばなの短い生命しかない花ではあるが、その枯れ落ちるまでの幾日かは、切りばなとしてのせいいっぱいの生活を続けるのだろう。私達は花を花瓶に挿して、このバラのように豊かに、美しい花をさらに美しく飾ることを考えて、選びその花を一層ひきたてようとする。これがいけばなである。私達は花を活けるとき花の生活をかえりみて、少しでもその命の長からんことを考えるのだが、ある場合にはいけばなの形式にとらわれて、を忘れてしまうような、そんな楊合がみうけられる。これはどうしたことだろう。いけばなを習う期間のうちにその他にもいろいろ必要な考え方がある。思いつくままに話題をならべてみたいと思っ゜専渓花瓶を花の自然「今日こそはよい花を活けようと思う。いっしょにならんで活けるお友達のだれよりも、上手に活けようと意気ごんでお花に向う。」こんな気持をもったことはありませんか。自分ひとりで活ける場合でも、今日こそは、と思うようなことはありませんか。こんな気持の日はよいお花はまず入らない、というのが一般です。よい作品を作ろうとはじめから考えることは、自分が自分の心へ最初から責任をもたすことになるのです。そして花を活けつつ、これでも気に入らない、もっとよいお花をと欲ばっているうちに、時間が長くなり鮮度は落ちて、やがてあわれな姿になります。折角、美しい自然の姿をもっているのに、これでは植物虐待ということになります。最初から大きく望まないで、ゆとりのある態度で花に向うならば、花をいためることが少いのに、これでは、今日こそはと思う心と反対の結果になります。よいいけばなは、すなおな勉強を重ねた人が、花に向っては無意識といえるほどの淡々たる態度で活けてこそ、活々としたうるおいのある作品が作れるのです。話が違いますがテレビ放送で野球の広島一巨人戦が放送されたときでした。そのときの長谷川解説者の言葉に「この最後の一球に死活の運命があるのだが、勝とうと意識してはいけない、また、それを理解して意識すまい、と考えること自体、すでにそれを意識することである。」と、いう話があったが、全く、心に負担をかけては決してよい結果が生れない、という意味ですが、これと同じようにいけばなの場合も同じことです。淡々として花を楽しむ心培が、よい作品を生む結果となるのです。―つの花に時間を氷くかけては活ける人の心がいたみ、また身体も疲労することになります。ふしぎなことですが、活ける人が疲労すると材料の花も同じように疲労してきます。花材がしおれたり切りすぎたり、折れたりするのはこんな時に起りやすいのです。「花のうるおいを落すな」ということは、いけばなの大切な考え方なのです。これと反対に「ねばり勝ち」という場合があります。たとえば、立花生花の精密な作品の場合、瓶花盛花で大きく重厚な作品の場合など、相当長時間を要するとき、最初から最後まで、体力と頭脳のあらん限りを使って、なお判断力を正しくもてる人、疲労を越えてなお作品に打ちこめるような人は、最終の作品の完成まで頑張ることが出来るでしょう。普通の人なれば、生花―つ活けても留の部分までくると精力がつきて、いちばん重要な最後の仕上げを完全に行なえないということになります。一瓶のいけばなを活ける場合に最初から最後まで充実した考え方と技術を完全に使うことの出来るように進行をはやめたり、小部分はあとまわしにして、少しでも完成を急ぐことが必要です。そして、最後の修正の出来得るような完全な組み立てを、進行中に作っておくことが大切です。いい加減にして先を急いではいけません。石を積むように一っ―つに注意し計卯して、先にすすむようにしたいものです。しかも、完成に向かって大急ぎに急ぐのです。花の鮮度の落ちないうちに。料う人達は先生の技術や言菜によって指導され階段を登るように、徐々に進歩してゆくのでありますが、この場合、一般的に先生の技法技術をそのままのあこがれとして、それをまね、同じような作品にならんことを念願して努力するわけです。もちろん、これでよいのでありますがここで私は提言したいのは「まねるということと、学び研究するということ、とは迩う」と、いうことです。いかに先生の作品が優れていても、それをまねることに終始しては進歩がありません。技巧的にはよく出来るようになっても自分自身というものが、決して培われるものではありません。よきものを学び、やがては自分の作品を作ろうとする野心を常にもつべきだと思います。学び研究して自分ながらのエ夫を加えて、一作ごとに自分のいけばな、という喜びをもたねばなりません。「心のはたらき」「自らのエ夫」ということは、どの伝統芸術でさえも尊重され、これの育成に師なる人の力が注がれるわけです。正しい勉強をつみ重ね、そして飛躍する心を、その加芽を大切に育てねばなりません。それがためには見間をひろくしなければなりません。人の作品を多く見ること、いろいろな機会を通じて作品をみる様に考えることです。そしていけばなに対する眼を正しくするように考えることが大切です。いつも脚いはじめた初心のころをかえりみて、どんなに上手になったとしても、いつもそのはじめの純真な心を大切にしたいものです。いけばなは永い伝統をもって今日につづいてきたものですが、今日のいけばなは、今日の生活に調和する作品であることが大切です。私達の現代の生活を飾る花として、今日的な内容をもったいけばなであることが必要なのです。たとえ伝統的な作品であっても、現代の私達の感動に値する作品であることが望ましいのです。思いつくままに12

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