11月号
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蘇鉄はお寺の陪にでも行けば、どこにでもあるものとばかり思っていたが、この作ぃ花をいけてみようと探したと乙ろ以外と少なくなっているのに驚いた。境内を駐車場にしてしまって、随分樹が少なくなっている。蘇鉄のように冬の川廷で四わなければならないような不経済なものから片付けられてしまったせいかも知れない。この蘇鉄は寺町のお寺で切らせてもらったものだが、ついでに沢山あった蘇鉄の葉刈りをしてきてあげたので半日つぶしてしまった。鋭い刺のお蔭で手が血だらけになった苦労の一作である。蘇鉄の生花は近頃あまり見かけないがサの絵図には葉のついた幹の分かれたものがそのままいけられているものがある。写真の生花は岡山県木部の高谷玉泉会長が古くからの型を残しておられたのを私が模したものである。子株の方を少し離していけたが、本来は、芋といっている蘇鉄の幹につけていけるべきものである。頂部に小業がついて、米た幹の形の良さを見せたいばかりについ離れてしまった。cl》型に空洞の山山水離は中同の明時代のもので、大きくて、乙のような生花でもゆったりいけることができるο蘇鉄の生花になくてはならないのは幹である。汁の絵闘の蘇鉄の生花は葉もいれて高さは一米ほどのものである。直立した真の幹の下から三分の一位の向さから刑の幹が分かれ、真の幹の後から見越の葉がのぞいている。留は栴になっているυ幹の頂部には葉が五、斗ハ枚ずつついているが、おそらく盆栽を切ってそのまま使ったのであろう。葉、だけをいけるのではなく幹どといけるには余程形よく、生花の型にはまるように、盆栽のように自分で育でなければならないだろう。そうしたとζろで幹が七十糎もあれば相当太く重苦しい止花になってしまう。そんな所で考え出されたのが写真のような、小さな芋のような形の幹を足下にそえて、葉をのびやかに使い、美しい花型にいけあげるのが生花としての知慧ではなかったかと思える。倉敷では県本部事務局長の原遊泉氏の御宅の躍に、手頃な蘇鉄があったので、自由に切らせていただいて高谷氏の説明を見聞きしながら、色々な型をいけてみたが、蘇鉄が揃えば、中々いけ甲斐のある生花になる。今回も紫苑や、秋の杜若の古型を聞き、良い二円を過ごしてきた。花器水盤(明・万屑年製)蘇鉄6

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