11月号
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日本の伝統芸術は定型的な形式の中に美を作ろうとするものが大部分です。古い日本画にしても能、茶道花道もすべて同じ様な理念をもって伝わってきました。その形式の美、技法の美というものは、日本固有のものであって、私共が祖先の遺産をみて尊敬するのもこの点にあります。しかし、ひるがえって今日の造形美術や舞台芸術をみて、その自由さと創造の範囲のひろがりに新しい共鳴を感じる次第でもあります。いけばなの場合も同じことがいえます。仏統の生花は形式的だが、その形式の中に技巧の美しさ、梢成の美しさ、よく考えられたバランスのとり方、自然の趣味や風雅をとり入れていけばなの中に表現しようとする、その技法の複雑.優美な考え方は実に興味の深いものがあります。今日のいけばな、瓶花盛花は、この伝統の形式主義から離れて、自然の植物の姿を花器にうつして、その目由な形の中に自然のうるおいと、色調の美しさをくみ立てようとするものであって、い心邸とか形式とかにこだわらないのびやかさがあります。―つは古典の美‘―つは清新の美、いずれにも特長があり、異なったもち味があるのですが、通じていえることは、仏統几花の場合も、視代花の場合も、それぞれの作品の中に優れた美しさを作る、ということです。4花は札花としての真実の美を、瓶花盛花はまたその立場において、新鮮な作品をつくるべきです。さて、私は生花を活けるときいつも考えるのですが、伝統という言業がよく誤解されるように忌うのです。古くから仏わったものが、古い形式技法が仏統だと、極めて安易に考えられやすいことには賛成できません。古いがゆえに将し、と考えることはすでに誤りであるし、古い形式技法をそのまま作るという考え方はこれは考え迩いであると忍います。古典伝統は時代のうつり変わりによって、常に変化してゆくものだという主張が正しいと思います。したがって、生花は常に新鮮な感覚をもつ作品でなければならないししかも伝統の形式の中に今日的な新鮮さをもつ、ということは中々むずかしいことだと考えています。庄花の静かな形の中にほのぼのとした洛新さをもつ作品、そんな作花を活けc たいのです。いろいろな野心が生れますが、生花は姑礎的に技巧の花ですから、なんといっても技術の優れていることが第一になります。理想は利くあっても技術がともなわない、ではいたし方がありません。鍛練した技術のえ、それに新鮮な考案が一っの生花の中に相ともなってあるように、そして完全な技巧の花形の中に、明るい感覚が流れているように、これが祝代の外花の理想といえます。花はむずかしいといわれますが、これは作ることよりも、考えることがむずかしいということなのです。四季の花材の中に、/花に活ける垢^1、むずかしいと息うものがいろいろあります。菊もそのむずかしい花材のつです。まげにくい花材であること、"集の撒理がむずかしいこと、花業が複雑でありすっきりとした形が作りにくいこと、みずぎわを災しく揃えることがむずかしいなどそれに早く活けないとしおれる、ということも条件の中に人ります。また、cの11花は細い枝ものの柳に白椿を添えて、大変調和のよい花ですが、細い木ものを曲線にまげて揃えて形づくるという技巧もむずかしいものです。白椿の緑の葉と白い花を添えて、風雅な初冬の感じの深い花といえます。i生3 こおりやなぎ白つばき•• さ

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