10月号
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こ。t 京都御所へいけばな、新聞社の原やがて九月、ながい夏が終って漸く九月に入ったと思うと、急に身辺が忙しくあわただしくなって、いつしか秋分の今日を迎えることとなっ稿が五つ、秋のテレビ放送の打合せ、束京山陰への旅行、秋の花展の会場の準備、懇話会出席など、その中に頼まれた絵を二枚。下手くその私に絵を書かせるなど、間違った考え方だけれど、引受ける私も随分あつかましい、と思っている次第である。来春のきもの展ホ会の図案になるとかの絵を、五名の先生方にご依頻というのが先方の趣旨だが、さて素人の悲しさ、あらたまって書こうとすると、こころ多くして筆すすまず植物園などへいって残暑の中で半日がんばった結果、なにしろなれない仕事とて、日射病のようなめまいを起して、それでもわれながら浅ましい絵を描きあげた次第゜欲ばらないでさらりと書いたときは、案外うまく書ける場合もあるのだが、あらたまって上手に書こうとすると、中々讃けないものである。絵も字も花を活ける場合も同じことだが、どうしてもよく見せようと思っ心の多いときは、かえってうまく出来ないものである。気軽に描いた絵、楽しみながら活けた花、こんな場合はそれがのびのびしているし、見る人に賎かな必じを与える、と充分承知していながら、さて、筆をもっと硬くなる。.というのはわれながら情けないと思っている。ここに掲載した絵は、秋のかきつばたの絵である。月の末に花を活けて、すぐ私が写生した塩絵だが、上手下手はとにかくとして、さらりと描きあげたところ桑原先生にしてはよく出来ました、という絵だと思う。そこで皆さんにもおすすめしたいのだけれど、花を活けるときは、上手に活けようと思わないで、のんびりと楽しみながらお活けなさい、ということである。絶体、今日こそ巧く活けよう、など考えると、いってよいほど失敗します、といって間迩いはない。はなはだしいと自分は上手なんだけれど材料がねえ、などと方向迩い昨年十必ずとをする人がある。これはよくない趣味である。文章でもそうである。思うままさらさらと書けるようになったら楽しいものである。そしてその中に何かを伝えることが出来たならば申分ない。いけばなでも数多く活けて、そのたびごとを楽しむのがよい。活けることが楽しくなったならば、自分は上手になったらしい、と思って誤りはない。毎日すすんで筆をもつ人は字のうまい人であろうし、またやがてはつまくなる人に間迩いはない。花鋏をもつことの多い人は切ることが上手になるー~ということは活けることもうまくなるということである。自分の下手な絵を対照して悪いけれど、それでも私がこれまで描ける様になるまでに、簡単な花の絵を万の数ほど描いている。それでも、さてあらたまると巧く描けない。当然だと思つけれど、ただ―つわかることは、二、三分で書く絵はどうにか格好よく見えるが、時間をかけてやると結果はよくない、ということである。これといけばなとは同じ様に考えられない特殊な条件がある。しかし一時問かけるよりも三十分で仕上げる方が結果的にはよい、ということがいえる。、秋のかきつばた(専淡画)専渓12 のんびりと

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