10月号
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止まあ’一きい桑原山守慶流いけばなテキスト瑚号20ll年m月l日発行(毎月l問lH発行)桑原導度流家一必発行定制K−−丘門一三円。一\\更ささ・}内亡者向凶}戸何回「mZ5コ一内の「(いOヨのつは、自分のいけた花の良くない仙士郎周彩歳少し以前、人の好みということについて少しだけ・3きかけたことがあった。よく考えてみると由はよくわからない。ただAとBがあったとするとAが好きだというだけで、それ以ヒはさかのぼれない。ただAが好きだというだけしか云えない。私は物心ついた時分からビーフステーキが大好きなのだが、「何故好きなのですか」と聞かれて、よく与えてみても「好きなのですから好きなのです」と朱口えることしかできない。それは言葉で説明できない論理以前の問題なのだろ、っ。心の真底深くで「好み」は私達の気持を支配しているのだが何かを選択する場合、その選択がよく洗練されるか行かによって、そしてそれは継続されることによって良くなってゆく。私は皆さんに時々「よくないいけばなを見たら、それと同じことは自分はしないように。いいなと感じる花を見習って自分もそうしようと思っても、そのいいいけばなは、長年かけて自分の良さを作り仁げてきたいけばなだから、そう問山中に’H分に応用できるものではない。それより円分のいけばなの良くないところを洗い落とすのが上達しやすい」と云っている。それが洗練の一つの方法でもある。私が先代(十三世)に敬服していた点「好み」の恨源、理ぴ黍きがみのってところを、どんなに疲れていても、どんなにおそくなっても根気よく手直ししていたことである。これ潔癖きであり、自分のいけばなの汚れを洗練させてゆく努力でもある。個性という一J口業がある。個性は洗練して余分なものを洗い流し、こそげとって最後に残った芯のようなものだと考えている。洗練しなければそれは唯の性癖にすぎない。私門身も余計な垢が分一作くつもっていたしんーもこ、ひりついてとれてない部分もある。だがいけばなの稽古を重ねるうちに随分うすくなって、人にも私円身の姿が見えるようになってきたのではないかと思う。ねは稲科の植物の黍が好きなようである。作例のようなまだ実が叫烈しきってないのは葉も美しい。そして実が熟してくると濃い茶色の粒になり、来先が枯れ色になって所々破れたりしてくると晩秋を感じる。そのいずれの時李にも力強く立っている姿がいい。とり合わせたのは応兜と玉紫陽花、どちらも山地で野ルーしている。これらが咲いて終わるともう初冬。山鳥兜(金鳳花科)正紫陽花(紫陽花科)花器濃紺粕水盤山化材黍(稲科)J{山所長扇司

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