10月号
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手人てナ’ハっ争ヲめもどSりんご蔓二種のいけばな蔓梅擬とキウイの蔓の少し変ったとり合わせの投入である。蔓植物は規則性のないような伸び方をする。本来は他の植物に巻きついて伸びて行く筈のものだが、近くに他の木がないと自分自身の蔓に巻きついてしまう。作例のキウイもそんな蔓で、右側の事稀擬とくらべるとあまり賢い植物ではないように見える。そんな感じをとら、えた投入なのだが、キウイの蔓と直義擬を一体化することも考えられる。この二種の苔痛蛎を主材とした場合この白と黄の菊は順当な配色である。とくに黄菊の方は色も形も良く、下の花器の色もひき立てている。花材キウイ蔓花器実物のいけばな私達はいけばなに何を求めているのだろうか。先代はよくただ美しくさえあればよいというだけのものではないとよく云っていた。たしかにそのとおりである。好きな言葉としてよく使っていたのは雅趣、風雅、雅教という雅のつく言葉いけられた花はただ美しいというだけでなく、その中に自然の中で季−コ:。直義擬白菊・黄菊茶色紬角瓶を追って姿を変えて行く梢物の姿にうつし出される情緒、詩情をくみとりたい。そう思っていたようである。昭和初年にいけばなの前衛運動の同人を作っていた先代も、ふだんいけるのはそんな花が好きだった。外見の美しさだけでなく花の咲く以前の若芽の清新さ、花期が終って実を結んで行くまでの推移を見守る、やがて実のふくらむ秋には紅葉して散る。あたりは落莫とした冬最色に変わるがその中で見つけた一枚の枯葉、それを拾っていけてみよ、?と思う気持が日本のいけばなだとも聞かされた。晩秋には好きで実菊をよくいけていたが、その季節にはまだ奮は固い。突菊は年の暮になって黄色い花の咲く頃よりも、色付きはじめた紅葉とまだ鮮やかな緑の残っている僅かな期間にいけるのが風雅なのだと云って実水み物も仙のもをほ好とけきうりぽだ合っわせたてがい木け瓜てのい実た、。姥百合の実、栗の実、そんな実物は一般的な意味では美しいものではない。ただ造花の妙といったものが感じられるだけである。だがそんなものをいけばなにとり入れて、人々の心の中から季節の情緒を理想的な形でひき出すのが雅致のある花であり、そうい、っ花をいけるのを楽しみにしていた。私達がいけばなによく使う前述の実物は林檎のような美しさは持ち合11

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