10月号
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しおん先代専渓の生花「桑原専慶流挿花図鑑」より私が父に生花の手ほどきを、つけ始めた頃、自習に首っ引きで絶えず会/考にしていたのは「桑原専慶流・挿花岡鑑||昭和八年三月二卜五日刊行と「生花百事集||附和卜一年一一一月二十日刊行」の二冊の伝書である。「挿花園鑑」は父がいけた生花をH本画家に写生させ、それを彩色木版画にしたものである。当時その画家の描いた下絵に父がこの枝はこうい、?方向に出ている筈だとか、葉のしなり具合についての注文を指示している絵付きの文書が今も少しだけ残っている。びいきいそれを凡ると微に入り細に人って綿密に指示しているが昭和八年に卜二才だった父にはすでにしっかりした自分の花型ができていた上に、いけばなの絵も描きこなせていたからである。三十二才というと、青年期から壮年期への過渡期で白分のいける花に誌も細かい注意が行き届く時代であり、それ以前の若い時よりも完成への持久力も具わってくる年代である。集である。そしておそらく本当の帝保での基礎、或は個性が養われる年代なのではないかと思う。この「霊化図鑑」には一月から十二月までの各月の生花が二作づっ織りこまれている。いずれた楠正ないけ方で、生花の良さ、興味深きがよく理解できる凶吾一巳の名の下に父もいけばなの前衛ま町昭和八年頃は、第二次世界大戦前の円本の豊かさのピlクの時代であり、その少し以前「新興いけばな宣運動に加わったが一方でこの図集を残してくれたことは私にとって何より大きな遺産だったと感謝している。紫苑古花型花型兵の行塑花器黒色利水撒この紫苑の花型は岡山方面で好んでいけられている花型を歩手ぢにして形造ってみた。紫苑の花茎は葉組よりかなり高くのび上がらせるが、高すぎると組まれた葉との釣合いがとれなくなって間仲ぴのした花型となる。花は真、副、内副と三本使っているが出生を重んじて留に低い花を挿し加えないのは当然な配慮である。十三枚の葉組の生花だが葉数が多い場合は必ず大葉、中葉、小葉をよく選んで揃え、その上手備の葉を持たないと・民い花型がいけられない。5

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