10月号
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七種伝の一つ。葉の色が黒っぽいグリーンなので写真では葉組みがはっきりしない。とくに胴の二枚がわかりにくいので写真のままを絵にした。いけ方は専渓生花百事と昨年の叩月のテキストに詳しく説明されている。扱いにくい花であり最初にそれぞれの場所に向いた葉を慎重にえらび出しておおよそのスタイルを頭の中で組立てておいてからいけ始める。昭和十年に発行された「生花百事集」の父の紫苑の生花を見ると現在のものとは大分感時秒以じが違ってきている。昭和十年というと父が三十五才である。すらりとして満酒な花で、その頃の迷いのない自信の程がうかがえる。「専渓生花百事」の木版画「若松」川頁、「水仙」川頁、「かきつばた」川頁、「四季咲かきつばた」川頁、「しゃが」川頁、「紫専」川頁、「河骨」山頁、「睡蓮」山頁、「蓮」川頁、「梅椿」川頁、「三重切」川頁、「藤」川頁、はその時代の花である。私の生花は戦前の「生花百事集」で勉強したのでその影響をうけている。自分で自分の花型を作り上げていこうとする場合何といっても本と写真をもとにし、好きな所を吸収するようになる。実際に一時は「生花百事集」をほとんど暗記していたくらいのものである。(花材)ム主・花、す呈しおん『龍腸』昭和日年3月号渋味という言葉がある。乙れは枯淡と云ふ熟語にあてはまるやふであるが、又、時にはそれでない場合にも用ひられるととがある。渋味は私達に大変なじみの深い一般的な言葉であると共に、巾の広い内容をもっ言葉である。日本芸術にも渋味があり外国芸術にも溢味がある。力強いととろがあるかと思へば極めて小品的な感じもある。標準のはっきりしない中にしっかりとした締めくくりがある。実に渋いもち味は従横無碍の境地だと思ふ。色彩にもある。形からもそれを感じられる。その挿花を作り出す人達の心の中にもある。それを見それを批判する吾々の教養に依っても、それが渋い作品であったり、渋い作品でないとも云へる場合も生れる。渋いという言葉は色彩や形のみを云ふ表面的な事柄のみではないから、非常な複雑な味をもつものだと思ふ。しかも至って一般的に俗語として用ひられる実に面白い言葉である。『龍脂』昭和日年3月号華やかな感じの草木を挿したからと云って挿花作品となった時、決して華やかなものであるとは限らないし、静寂な材料を取合せて投入花忙したからと云って挿け方に依ってはむしろ華やかに見える乙とにもなる。そこに挿花の妙味もあり、私達の芸術の運び方のよしあしと云ふものも生れて来ること与なるものである。』昭和H年4月号花道に限らずどんな芸術にありましても『龍臓そのものh至上の境地に至るまでには並々ならぬ研究と鍛練を要するものであります。書きものを見たり、人の話を聞いたりして、それのみでは決して優れた芸術を作る乙とは出来ないといふととは申すまでもない。乙とに絵画や彫刻や挿花や音楽のような実際の技巧と考案と結んで芸術とするものは、百の理論よりも一つの実際に当面して身を以って研究し血のにじむような苦心を続けねば到底優れた作品をなす乙とは出来ぬものです。音楽は音譜が尊いのではなく、種々の楽器から流れ出ずる音響の美しさが尊いのであります。生花は生花の絵図や生け方の書物が尊いのではなくて家際花器に挿け上げた作品が尊いのであります。『テキスト』昭和初年3月号花をいけるときあまり永く時間をかけるとよいお花が出来ない。丁寧に活けるのだからよい筈なのに出来上ってから見ると、いいのか悪いのかわからない様なお花が出来る。乙れはその活花がすでに新鮮さを失っている場合が多いのである。いけばなは活きた花を扱うことであって限度以上の時聞がたつと、材料の花葉は段々と鮮度を失って色も落ちて行く。花も葉もうるおいを失って、やがてしおれることになる。今一つ大切な事は活ける人の心にうるおいのあることが良いいけばなを作る事となる訳で、時間が永くなり、身体も心も疲れはてて来ると到底満足な花は入らない。材料は傷み心は疲れ、その結果は更に材料を組雑に扱う乙ととなる。守?を一」紫一一巡一yぷ九v州M、γf乙ソW程必OわxKつJ一dヤ\一一一ぷ「く初期テキス卜抜粋〉12

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