10月号
193/579

〈講演要旨〉先日、西木願寺に依頼されて大阪の津村別院で本願寺立花の講演をした。要旨記録を紹介しておきたい。天正時代(時世紀)紀州鷺の森で上人に仕え立花を献じていたのが桑原の遠祖であり本願寺が京都に帰るのに従って西六条に居をかまえやがて池坊と並び称される桑原冨春粁仙渓が出てくるのである。代々門徒として西本願寺の立花の責任を負って大正時代まで桑原家で立てていた。西本願寺は立花に大変力をいれた宗派で本願寺立花という呼称がある位で、とくに夏、七月七日の七夕の日には「七日の花揃え」或は「本願寺の篭花」といって京都の年中行事の一っとして祇園祭、五山の送り火(大文字)に先がけて行われ見物界で大いに賑わったそうである。都林泉名勝図絵にもその有様がえがかれている。又貞享二年頃というから初代仙渓の活躍した時代の京都案内書「京羽二重織留」にも京の年中行事として大きくとりあげられている。以後江戸時代の終りまで続いた。立花が町衆のものとして親しまれて来たのには代々の冨春軒の力も大いにあずかったといえるυそして代々の冨春軒が西本願寺の花を立てている聞に桑原調ともいえる一つの雰囲気も育っていったようホりフ。使いζなして強い感じが山てくるのいるυいけばなも長い年月に耐える立花は、hvめ辿のごく簡いいい糸な投入風絵図に見るようなたよりない姿の主である。うす附い御影引に照ってみるとよく分かる。附くはあるが〈点色燦然とした制度品の間におかれる立花は相当な重みと厚みの感じられるものでないと周囲に圧倒されてけしとんでしまうに追いない。風雅なだけのものではおさまらないのである。他の流儀の立花と構成は似たようなものだが出来上った盗は引ムれでも随分趣きが追うのが桑原の立花で立花での傾向は引代の桑原のFH山花にも大きく影響している。盛花や瓶花でも前後の奥行を傑くとり、花の本数も他より倍近く多い。それに色彩も品の良い色を深みをもたせていけなければならない。だから草花だけでいけても相当な分量を品よくである。戦後の一時期の川町かるいだけの建築から、現在は前ちつきのある重厚さを求めるようになってきて技巧は一朝一夕に育つものではない。自由花にも流れているとの桑原の調子は大事に守って行きたい貴屯な風格である。仏前の供花として準化していったなものから今でいう「仏さんの花」のような形の初期の立花。残された町時代を経て江戸初期に信仰と共に我々の祖先が完成したのである。西本願寺の立花(花材)さるとりし可ばらとりかぶと。

元のページ  ../index.html#193

このブックを見る