テキスト2011
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『】やヲこ桑原市守慶流いけばなテキスト別号季節の花木に蘭をあわせる花材/辛夷(木蓮科)シンピジウム2011年3月l日発行(毎月l同lu発行)桑原市守慶流家元発行(蘭科)菜の花(油菜科)花器/市松模様花瓶定価丘二五円機子一\\認を巧−一三』巧∞古川戸吋仙粛彩歳先月号でケンペルの「江戸参府旅行日記」をゆっくり読んでみたいと書いた。読んでみると、その時代の長崎から江戸迄の道中で私の知らなかったこと、或いは気にもとめてなかったことが事こまかく描写されている。まず驚いたのは大名行列である。一つの{宮習乞先頭を毛槍を立てた奴さんが出発し、行列は延々と続きその宿場を最後尾のお供の藩士が通り過ぎるまで三日もかかったそうである。一体何千人の行列だったのか。徳川幕府は全国の大名の統制策として参重父代という制度を設けていた。ご存知のように大名達は一年おきに領地から江戸に出府させていた。大大名だと多分何千人ものお供を連れての行列である。瞥決な旅行のことを大名旅行というけれども、当時の大名行列は現代の大名旅行とは桁が違うらしい。そんな大がかりな旅の出資を二百何十年か続けさせ、それを大名達も受け入れてきたのである。だが、そのため道路は整備され、治安もゆきとどいていた。そして京都から江戸までは十二日問。長崎から江戸までだと十七日間と旅程まで決められていたそうである。おまけに奥方達は江戸に人質のよ、つに強制的に住まわせられていた。街道が整備され、治安もよかったω印。ロ}内内山戸・。。ョので江戸時代人は大変な旅行好きであったらしい。こんな話も書かれている。十三、四才の子供が福島県あたりから一人で伊勢科宮への参拝旅行をしているのに出合ったというのである。良かっただろうなと田中つのは下関から大坂迄の瀬戸内海の船旅である。日本の人口は初期は二千万人に満たないが元禄時代には三千万人台になる。船仁から見る中岡地方、凹闘の風景は質素だが美しい平屋の村、背後は美しい山地。こんな美しい海路は世界中どこにもないとほめている。京都から江戸までの途中、通り過ぎた町や村の戸数やおよその人円まで記している。特に村や町のお寺や神社のことには興味を持っていたらしい。どのお寺にはこんな仏像が安置されており、神社の鳥居の大ききゃ参道の造り。御神体は鏡や剣であったりと見聞を楽しく記している旅の途中乞食が多かったと、そして乞食の種類も様々あったのだそうである。ムーではホlムレスは見かけるが乞食は殆ど見ない。私の子供の頃にはお寺の参遁や繁華街の道端には必ず居た。だが三百年以上昔の街道筋には大勢居たそうで、旅行者にしつこくつきまとってケンペルも困ったと書いている。流組冨春軒の暮らした卜七世紀の日本をあらためて知った。。

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