テキスト2009
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桑京右手面宮古札つぶやはHゃのIひ前rに。同が上がって薄日がさ仙粛彩歳梅雨、誰もが嫌がる季節。だが嫌いな季節のない私には書斎でおだやかに暮らせる一と月である。あの細雨の長々と降り続く六川、雪のHではないにしても、烏丸通からの騒音も、幾分か静まるし、排気ガスも雨に当たって側溝に流されている筈である。外からの音が幾分か、かき消されるお陰で、占斎の窓から入りこんでくる物背は、厄根を伝って州樋に流れ落ちる音だけになってしまう。あの音のリズムは中々いいものである。性急でもなく、激しくもない。本を読む、何か文章を書く、思いついた絵を描く気も湧いてくる。少しの問、雨が降り止むと、白戊川の流れを見に行きたくなる。いつもより水嵩も増して流れも早い。ぷ音も立てないで流れている時より長気がいい。二条大橋から南禅寺は近い。ぶらぶらと山門のあたりまで来ると東山すと山襲を雲が這い昇ってゆく。何分間か知らないが見飽きない。閑な人である。だが人間八十一才にもなれば、そんなことをしていても、一向に気がひけないのである。庭の椿の葉も、すっかり生え代わって明るい緑色になっている。雨上がりの日には殺虫剤を撒く。小さJ』なみずか5な茶毒蛾が落ちてくる。板屋楓に撒くと、大きな緑色の℃虫がコロコロと落ちる。「ザマ兄ろ!、ここは僕の庭なんだぞ」と心の中で肱く。ねは京都の問季が好きなのである。別にアマゾンの奥に出かけて大自然に触れてみたいとは思わないし、アフリカで野生動物の暮らしに感動してみたい気にもならない。それよりあんな所で十日以上も、訳の分からない料理は想像しただけで「もう結構」とぷいたくなる。京都は私には好都合な広さの都市である。ちょっと歩けば東山か北山、西山に辿りつく。そこには千年以上かけて人間と適度につき合ってくれている自然がある。そして山際の内い神社や仏附も治潔に下人れされている。南米やアフリカの大門然も結構なものだろう。だが虫除けスプレーは必ず持って行きなさいというアドバイスのつく所へは出掛けたくない。エコツアーなどと云っても、現地の人々と.緒に、現地の料用など恥には食べられそうにない。一週間も居たら身体の調子が狂うにちがいない。京都なら、その辺をウロウロとほっつき歩いて帰ってきても、機子の作ってくれる夕食が、ちゃんとできてるし、風片から上がれば、りにしつらえたベッドで、出の心配もなく、のんびり本を読み、好きなCDを聴きながら一円が終えられる。n分

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