テキスト2009
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えんげついいぎりがうん椅桐で・・・、精桐をいけた北で印象に残っているのは一九九七年の「婦人阿報」の1月号で素子が束布寺の値月橋にいけた鯨北化である。僅月橋は紅葉の名所東福寺の洗玉臥伝一古橋。私はその臥雲橋の橋の際で育ったのだが、まさかそんな場所に花をいけることになるとは。その頃、京都の銀閣寺、金閣寺広隆寺、三十三間堂、清水寺、伏見稲荷、上賀茂神社、東寺、南禅寺、社右の大田神社、宮島の厳島神社、奈良県の長谷寺、と方々の袖社仏閣で婦人画報のための花をいけてきた。私達の共存「花ふたり」では京都のいけばなの同季を出版したのが一九九一年。そしてスウェーデン、アメリカ、トルコ、エジプト、オランダ、ドイツ、ハワイとまわって「花ふたり旅」を出版したのが一九九七年。一九九0年代は花と一緒に行先もしっかり知らずに、駆け抜けてゆくような十年だった。色んな花に、様々な記憶と感情が重なっている。多分私はそれをいけよ、っとしているのだろ、っ。花材椅桐(飯桐)水仙花器備前焼花瓶寒鈎一人が仙粛4澗上かみに手てかのしか橋もってでて次いがる通三天つ橋のそ橋のの下一手ばんが11

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