テキスト2008
16/145

きびみようみかいいF品い−kつベんさんじ(第一て種郵便物認可1985年日月お日)桑原専慶流いけばなテキスト訪号2008年1月1日発行(毎月l同lH発行)桑原専慶流家元発行仙驚彩歳初冬になると、よく枯草をいける。好きなのである口今月号のテキストの六頁にもシペラスの枯れたのを使っている。この頁のは枯れた黍である。枯れたとは云っても、まだ晩秋の日射しと澄んだ夜空の冷気を受けて染め上がった紅葉の名残を留めている。後にそ、えた冬の拡布の先枯れした葉の後に咲きかけている花をのぞかせている。花は少し温かい水の湧いているところで咲く。春、夏、秋だと、蓄をいけると翌日には聞きはじめるが、今の季節だと三日ぐらいかかる。こんな花をいけて眺めているのは楽しいというより、宇宙の妙味を周一ませっ。間見せてもらったような気がする。へミングウェイの「海流の中の島々」という小説の中で、浜辺で流木で焚き火をしながら「こんな神々しいものを燃してしまっていいのだろうか」と書いている。何十年、或いは何行年も年を経てきた木が倒れ、川に流れてゆく聞に樹皮がはがれ、ぎざぎざしていた折れ端は石や砂にこすれて丸くなり、海を漂っている聞に美しい色相になってくる。流木。そして晒木(曝木)にも威厳がある。中部地方の高山帯の針葉樹の二、三十伝もある大木の天辺が枯れて風雪に晒され、鈍い銀色に定価五二五円22U一\\を巧ぎ・一Et弓山之532Dwo−−nOBなっている部分がある。深く濃緑の樹林から突き出ているが、そんな天辺の立派な大木を見ていると、お辞儀しなければならないような気分になる。あんな所で風雪に耐、えながら堂々と枝をのばし、緑を蓄えているのである。日本アルプスに行かなくても、塵山寺の桑原専慶流の石碑の左側に制の大木がある。二卜ιほどの高さだが太い横枝が枯れて雨風に洗われて一以内色になっている。年に何度もお墓まいりに行く度に見上げている。そして欲しいのだが、切らせてもらったりすると、罰が当たりそうだし、見上げる楽しみもなくなってし今年もそろそろ京都駅の新幹線コンコlスで「京の冬の旅」のいけばな展がはじまる。時々枯芦や枯薄を主材にした花を出品しているが、白分でもうまくいけ上がったなと感じることがある。いけばなには呆仏同年という刑圭入がある。日本画の画題と似通った面もあるが、私の枯草を主材にしたいけばなも呆色花と近いかもしれない。だが、それとは又違った感じになっているようである。北山辺りを散歩しながら何か拾ってこよう。(四季咲種)椿(紅・白)黒地白点刻文花瓶花材枯黍杜若花器ろ

元のページ  ../index.html#16

このブックを見る