テキスト2008
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あまご仙粛彩歳還暦を迎えた頃だっただろうか、八十になったら、どんな花がいけられるようになるのだろうか。多分素朴で街い気のない花、色々と試行錯誤をくり返してきたが、こんな花でよかったのだ、と自分で気がつくような時期が来るのではないかと期待していた。昨年で八十才、今年はもう八十一才。一向にその気配は訪れてこない。かえって欠点を目立って感じるようになってきている。こんな筈ではなかったのである。私がいけばなをはじめたのは中年になってからのことである。先代に習いはじめて、まず云い渡されたのは、「人が十年かかるところを、あんたは三月でやってくれ」。別に深く考えたり、決意したわけではなく、ただそんなものかな、と思っただけだった。その時期すでに花をいけるのが、この上なく楽しくなっていたので、先代のそんな再業も私の上を表通りしてしまったのだろ、っ。私は先代のいけばなが好きだった。とくに自然調の投入や盛花に惹かれた。まだ素子と結婚していない頃、六角の家で、先代が京展の出品作の下いけをしているところに行き合わせた。沢山の新緑の枝物花材の横に、大きくて奇麗な色の蝶々が置いてある。これいけばなに使うのかてらげなと怪一訪な感じがした。だが実際にどんないけばなになったのかなと、翌日素子に大丸の華道京展の会場に連れて行ってもらった。「これ、昨U父が下いけしていた花」と云われて軒くぼんやりと見上げていた。その自分毎週のように京都の北山の奥や北陸の渓流にけ千釣りに行っていた。初夏の谷川、その風景には私なりの深い思い入れがある。先代の蝶をとり合わせた投入に、その谷川の風の肌触りや昔、気温、匂いまで感じてしまったのである。川端龍子の代表作の一つに「阿修羅の流れ」という絵がある。山奥の大きな岩の聞の逆糸ぞような流れの上を一匹の蝶々が飛んでいる大作。蝶以外は殆ど色を使っていなかったよ、つに思、っ。私がいけばなをやってみたいと思うようになったのは多分その時からではなかったかと思っている。色々な好きなことに導かれて八卜一才までやってきた。父からは、ものの考え方、母からは美しさ、そして先代からはいけばな、読んだ本では林語堂からは古代巾問やギリシャの好感を持てる哲学者の言葉。頭というのか、心というのか様々なものの道玄cによって成り立っている私なのだが、たまにでもいい、枯淡さが出せないかと願っているのである。3

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