テキスト2007
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(第二−極郵制限物認可1985年日川おけ)桑以前寸度流いけばなテキスト掛け2007年8川lH発行(毎月i阿!日発行)桑似存度流家元発行’VE人こJ−−。の蔓付きの葡萄にはパッション仙粛彩歳町も呆物をいけるのが好きだった。そして、葡萄ならマスカット・オブ・アレキサンドリアを一一房とか、富有柿十個とかボリュームたっぷり使っていた。横でケンチャンと順君が撮影が終わるのを待ち構えてフルーツをとり合わせ、花径二十γもある白い、ダリアを大きく添えた。こういけてみると、小粒の葡萄のかわいらしさと、パッションフルーツの色艶が輝いて見える。花器はドイツのウシさんに頂いた牛乳の紙パックを模した陶製の花瓶である。花材葡萄白極大輪ダリアパッションフルーツ花器紙パック型花瓶「お花の精占をしている問、無心になれる。それが私にとって大切な時間」と云って毎週稽古に通ってこられる。六角通から、打ち水した細い石畳の路地を通ってくる聞に気持も整うのだそうである。門の扉を開けて三十数伝。そして二階の稽古場に入る。入るとまず確かめるのはその日のとり合わせ。落ちついた季節のとり合わせだったり、華やか(ロlゼンタlル)−淀川川圧−−K門ZG一\\者名活−一内ろ、っ。一一一一打葉に変えて録背してみたら、多分とな色鮮やかな日もある。「あ、これは難しそうだな、とかこんな配色好きだな」と思っているうちに、私のいけ方の説明が始まる。そこから自分でいけてゆくのだが、いつの間にか無心になっている自分に気付く。そこがいいのである。無心というのは雑念のなくなっている状態なのだ私も花をいけている時は無心というのか、ただ花をいけているだけである。だが手にとった花には何かの感じを受けながらいけ進んでいる。無心というのは一体どんな状態なのか。もし頭の中で浮かんでいる感覚をりとめもない独言になっているだろう。ひょっとしたら、昔見た西部劇の断片、子供の頃見た母の着物の色の、ぼんやりした印象、祖父の洋服に染み付いた葉巻の匂いまで、意識下に潜んでいるようなことにまで、いけた花は影枠を、つけているのかもしれない。向分でも気付いていない心の奥底に隠れた断片が絡み合って一つのいけばなをいけ終えるのだろう。無心になるということは、そんなことであるかもしれない。花、同じ種類の蓄識でも、どことなく違う。それが他の花と六本、七本といけてゆくと、いけ上がった感じは大きくちがってくる筈である。自分の良いところが出せるようになるまでが稽古だろうと思う。cd弓∞『戸川口ω印。コWAW−−。。ョ一本一本葡萄楼子12

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