テキスト2007
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づか(第三種郵使物認可1985年日月おH)桑原専度流いけばなテキスト湖号2007年6月l日発行(毎月l回l日発行)桑原専慶流家元発行仙粛彩歳青紫色の雲の中からフラミンゴが飛び出しているような花である。別にそんなことを意図していけたわけではない。この配色なら感じのいい投入になるだろうと思っただけのことなのである。この頁の原稿を害くまでの問、健一郎達と「キリク」というアニメlション映画を見ていた。色づ遣かいがとてもいいのである。舞台はアフリカで登場人物もアフリカ人である。だから大地は濃い茶色や淡い茶色。人物も褐色なので、そこに出てくる人達の衣裳の色、花や木の葉の色、それに動物の色、それらを美しくまとめるのは宗国初ではなかっただろうと尽っ。両面の大部分を占める茶系統を背景に、女性の身にまといつけている布は赤、育、ピンク、緑、紫と、色とりどりなのだが、どれも原色に近い、はっきりした色である。私の使ったことのない配色なのでびっくりしたのかもしれない。フランスのアニメなのだが、アメリカとも日本とも色遣いがちがっているよ、つに川ザつ。ただフランスだからいいと云っているのではない。昔カラi映画が主流になり出した頃、日本の評論家がフランスのカラl映画を評して「アメリカのカラl映阿より、色が淡くていいですね」とフランスの映両監督に話したところ、その監督は「そ定価五二五円EG・\\当者宅−WCS占一ggmσコRAW−−の。日うではないのです。アメリカほど予算がないので、あんな色しか出せないのです」と符えられたそうである。だから頭からブランドを信じこむのは愚かなことだと思う。日常の生活の中に様々な形で接する色には、民族によって、或いは個人によって評価の差はある。それは芸術上で、評価の高い名画の色とは異なった評価の範問だろうと思う。私の住居は庭も含めて日本風、或は京都風な建ち方である。だが江戸時代の人々、明治の人達から見れば少し違った感じを受ける、だろう。このい部とか屋、一アにl卓、rはルここんなん照な明の得に円変パえはな合さわいな。違和感があるから、という筈である。だがこの百年の間に、背はなかったものが沢山生活の中に入りこんできている。そして汗のものと、新しいものを何とか使いこなせるようになってきている。例えばこの頁のアンスリュlム、それにこの花器というとり合わせも、私の子供の頃(七十年前)なら、今のこの家にはチグハグだったかもしれない。でも変わってないようで変わった現在の私の家の中では別におかしくなくなってきている。多少の違和感は、円分の生活感党の中で解消できるのである。慣れではなく。この投入の後には、秋野小矩さんの山百合の軸でも掛けておこう。

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